ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 宮崎勇・本庄真・田谷禎三著 「日本経済図説」 第4版(岩波新書 2013)

2014年09月25日 | 書評
激変する国際・社会環境の中で日本経済を読む 第2回
1) 経済発展の軌跡
① 近代化
明治政府以来第2次世界大戦直前までのおよそ70年間、日本経済は年平均4-5%の成長を遂げた。これは列強が自分の国のことに忙しく、ほとんど外国の経済援助も受けずに高い成長を記録し、近代的な銀行や製鉄業、造船業などを建設したことは東洋の奇跡として賞賛されている。これには指導者の英明で開放政策の下で、先進的な技術・制度を採り入れ、人材と費用の投入を惜しまなかったことが要因として挙げられる。むろん手本のある後発の効率のよさもあったであろう。「殖産興業」の経済政策はキャッチアップには効率的であったが、かならずしも国民生活の向上には至らなかった。また官主導の経済運営は戦後の官僚制に根強く残存し、日本の国体となってしまった。
② 戦前と戦時中
第1次世界大戦の漁夫の利を得た日本経済は、1918年(大正7年)の工業生産構成比が57%となり立派な工業国に変身した。軍事化と急速な工業化は、資金の優先的(傾斜的)動員は社会の発展を遅らせ、格差(とくに農村と都市)を拡大し、労働者と農民の不満を募らせた。関東大震災、世界恐慌は日本経済を直撃し、銀行取り付け騒ぎなど深刻な社会不安を引き起こし、農村の荒廃を背景とした軍部の台頭を招いた(忍び寄るファッシズム)。世界各国はブロック経済を形成し、遅れたドイツにはナチスが台頭し、日本では軍部が政権を握った。軍備費は1934年以降一般会計予算の半分を占め、「大東亜共栄圏」を目指して無謀な戦争に突入し、官僚主導の統制経済はやがて破滅を迎えた。
③ 戦争被害
1945年8月ポツダム宣言の受諾により終戦を迎えた。国富の被害は653億円(22%)、戦死者が186万人、一般市民の死傷者67万人であった。610万人の軍隊は解散させられた。膨大な戦費は増税と国債で賄われた。その代償は国民生活の切り下げと猛烈な(3桁以上の)インフレーションであった。日本国民は日中戦争と太平洋戦争で7558億円の軍事費を負担した。戦争は何も残さず、すべてを奪い去った。政治的、経済的、文化的遺産を根こそぎ無に化し、「過ちは繰り返しません」という懺悔の教訓のみを残した。ほとんどの工業生産設備の30-60%は被害を受けていた。戦後残った産業資産は、発電所168万KWH、石油精製能144万Kl/年、電気銅1万トン/月、自動車生産能1,850台/月、セメント567万トン/年などであった。ここから戦後経済は再出発した。
④ 復興から自立へ
生産設備及び原材料・エネルギーも途絶えていたが、復員した700万人の労働力をもとに日本経済は困難な復興の途に就いた。インフレは1949年のドッジラインで収束しデフレの方向に向かったが、これを成長に切り替えたのが朝鮮戦争特需であった。戦後10年たった1955年には経済成長率は平均して8.5%を維持した。1955年は政治的には「55体制」の始まりで安定期に向かい、「もはや戦後ではない」と経済白書で宣言され、戦後の独立国家にふさわしい経済自立の達成という目標に変わった。
⑤ 高度成長
1960年代に始まった高度経済成長は1973年の第1次石油ショックまでに、年平均GNPは10%を超える成長率が続いた。設備投資が盛んで国際競争率も強化され輸出がGNPの2倍近い勢いで伸びた。池田内閣の低金利政策と所得倍増計画によって推進され、安定成長を唱えた佐藤内閣時代も継続して経済成長が続いた。1964年にはOECDに加盟し先進国の仲間入りを果たした。1971年には国民総生産がアメリカ・ソ連に次いで第3位となった。高度経済成長は完全雇用を達成し、労働者の賃金を上げ国民生活は向上したが、消費者物価の上昇、生活環境の悪化、公害の多発などひずみも拡大した。
⑥ 石油危機
高度成長によって国際競争力を増し、輸出が増えて貿易収支の黒字が1960年代終わりから1970年代初めにかけて定着した。戦後IMFは固定平価制度が維持されていたが、通貨調整に失敗し、1973年変動為替相場制に移った。通貨の強さは市場で決まるようになった。産油国はOPECにより石油価格のつり上げが続いたため、1978年末から第2次石油ショックが起こった。石油価格の大幅値上げは消費国にインフレと経常収支悪化をもたらし、石油依存度を上げていた日本経済は激しいショックに見舞われた。
⑦ 国際化と円高
石油価格上昇で物価が上がり経常収支が悪化すると心配されたが、変動相場制の下で日本経済は活力を取り戻した。景気の落ち込みと貿易収支黒字に対してはマクロ政策を実施し、インフレについては賃金と物価安定に努力し、コストプッシュインフレを克服し、企業は市場原理を生かして省資源・省エネルギーを推進して石油資源輸入を節約した。こうして日本一早く石油ショックから立ち直ったが、この成功は貿易経常収支黒字を拡大して新たな世界経済の不安定要因となった。1985年ごろから円高が急速に進展し、東京市場のスポットは100円/ドルを切った。1990年代は110円程度の円安となったが2000年代に再び円高となり2013年には70-80円/ドルまで続いている。最近の円高はスポット市場のことで、実質実効為替レートは100円/ドルで維持されており、それほど円高になったわけではない。
⑧ バブル経済の崩壊とデフレの長期化
1980年代日本経済は資産価格バブルを経験した。それは1985年のプラザ合意後の円高不況に対処するために金融緩和策が長く続いたことに一因がある。銀行の貸し過ぎによる信用の膨張が地価や株価を維持出来ない水準まで上昇させた。バブル崩壊後日本経済は深刻な景気不振に見舞われた。3つの過剰(企業債務、設備と雇用)が日本を襲った。金融機関の不良債権問題処理は2004年まで続いた。90年代に入って日本経済の最大の特徴は低成長とデフレ的な物価低下であった。少子高齢化の対応の遅れが需要の減退をもたらし、経済のグローバル化は日本の労働者の賃金抑制となり、サービス価格の抑制に働いている。90年代からの経済成長率は2%以下であり、もしくはマイナスとなることもしばしばあった。消費者物価指数は1995年以降ほぼマイナス傾向が続き物価低迷である。賃金が下がった分物価も下がるのである。
⑨ 現段階
日本経済の現段階は、復興期(8.5%)、高度成長期(11%)のあとも80年代まで国際的には高い成長を示した。世界に占めるGDPも15%を超えた。しかしその後1990年代後半から2000年代に入っても日本のマクロ経済指標は停滞したままである。工業生産の分野では70年代に鉄鋼・自動車・造船では世界トップクラスとなり、90年代には半導体・エレクトロニクス分野で世界をリードしたが、2000年代に入ってこれらの分野で新興国のキャッチアップを受け激しい競争時代になった。テレビ・半導体など一部分野では競争に負けて撤退した企業も多い。他方国民生活の面では、耐久消費財・情報など豊かさがもたらされ、「企業の独り勝ち」という経済力と生活実感との格差も縮まってきた。
⑩ 経済発展の諸要素
戦後経済の復興と経済成長の要因については関心が集まっている。国際的には武力紛争に巻き込まれず、IMF・GATTのメリットを受けたことが大きい。つまり平和と自由の尊さの恩恵によるところが大である。国内的には戦後の非軍事化と民主的制度改革のメリットが一番大きい。独占禁止法、労働3法、農地改革はそれぞれ経済に活力を与えた。資本・労働・技術開発は一体となって生産性を高めた。労使関係、政府と民間の関係もおおむね良い方向へ働いた。経済の目的が国民の生活向上を目指す限り、自由と民主主義はこれからも経済発展の土台である。再度国民生活優先の原理に立って、経済によって一層の生活の質を高め、国際化の中で自国本位ではなく世界に貢献するために経済発展をどう生かすかである。

(つづく)