ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

文藝散歩 森鴎外著 「渋江抽斎」 中公文庫

2011年02月11日 | 書評
伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび 第1回

 森鴎外の著作は私の高校以来の愛読書であった。しかるにこの「渋江抽斎」だけは読む気がしなかった。第1回目は大学生の夏休みに読み始めてあまりの退屈さにギブアップし、第二回目は2001年のころ中公文庫の手ごろな本の値段(571円)に引かれて購入し、なんかのきっかけで中断したままであった。そして2010年夏、意を決して第3回目の正直で3日間で読了した。これもなにかの因縁かもしれない。「渋江抽斎」は決して歴史上の人物として特記されるべき人物ではない。江戸時代末期の漢方医であり考証学者である。維新の魁を担った人物でもない。だからというわけでもないのだが、森鴎外の「渋江抽斎」は淡々と進行する退屈な事実の羅列に過ぎないと、若い頃の自分は思ったために読む気がしなかったのだろうか。森鴎外の生涯は語りつくされている感がするので述べないが、東京にある森鴎外の遺跡は機会があるたびに訪問した。上野不忍池の北にある森鴎外新婚当時の家が、ホテルの中に囲い込まれて現存している。また陸軍省に馬で通ったという文京区立本郷図書館(千駄木)となりにある「観潮楼」の旧宅から海が見えたという。東京都三鷹市の禅林寺の「森林太郎の墓」に詣でたことが懐かしく思い出される。すべて昔の事になったのだが、今において再度森鴎外の「渋江抽斎」を読む気にさせたものは、尾形仂著 「鴎外の歴史小説ー史料と方法」(岩波現代文庫 2002年)であろうと思う。森鴎外を天皇制へのアンチテーゼとして読む文学観、そして職業倫理である。封建制批判は角度を変えれば乃木大将殉死の天皇制批判となる。ここに森鴎外の歴史上人物への思い入れが見られ、本書「渋江抽斎」にはそのような文藝史観はないが、森鴎外自身の軍医・文藝愛好家としての共感と職業倫理に徹した名著として残る作品である。
(つづく)

読書ノート 宇野重規著 「'私'時代のデモクラシー」 岩波新書

2011年02月11日 | 書評
個人主義の時代に、私たちの問題を話し合うデモクラシー 第7回

1)現在の平等意識 (3)

 日本型年功序列(その恩恵に与った部分は本当は少ないのだが)は生涯賃金といわれ、若いうちの賃金は少なくとも、生活年代に応じて賃金が上昇するという暗黙の了解に立っていた。それが崩れつつある現在では世代間格差にしわ寄せが行くのである。社会学者の佐藤俊樹は「爆発する不平等感」において、戦後の日本社会は機会の平等をあまり感じさせない仕組みを持つ社会であったという。「自分は高等教育を受けていないから貧乏なのは仕方ないが、子供だけは大学へやりたい」という親の気持ちはまさにこの「不平等感の消失」である。これが不平等を世代で解決するという気がなくなり、あくまで個人単位になると、より短期間的な不平等是正を求める声につながってゆく。年功序列のなくなった中高年齢層は自分の賃金や地位にしがみつき、若者の機会を奪っても恥としない既得権意識が濃厚である。中高年の生活を維持するために、新規採用をしないことを決めるのは中高年層の幹部である。今で言えば団塊の世代がその決定権を持っている。日本では、この不平等感が階級意識と結びつかず、共同体から放り出された「私」の平等意識として、未来に期待を持てず、短期の不平等感是正を求める「私」の平等意識を形作っっている。他者との連帯が希薄化するなかで、自分のかけがえのなさにこだわろうとして、その中の一人に過ぎない自分を痛いほど自覚している「私」。このような「私」の平等意識こそが現代の平等意識なのである。
(つづく)

読書ノート モンテスキュー著 「ローマ人盛衰原因論」 岩波文庫

2011年02月11日 | 書評
共和制から帝政への移行が滅亡の原因 第10回

帝政ローマから東ローマ帝国の滅亡まで (1)

1)BC27-AD14 がアウグストゥス皇帝の時代であった。AD14-37年はティベリウス皇帝に時代となった。帝政の桎梏がティベリウス皇帝にいたって暴力的様相を示しだす。「不敬罪に関する法律」を楯に行使される専制政治は残酷であった。裁判を行なう元老院はもはや卑屈になっていた。皇帝アウグストゥスは人民から裁判権を奪ったが、ティベリウス皇帝は人民から政務官を選出する権利も奪った。皇帝があらゆる官職を自由に出来るようになった時、卑劣な方法で官職を求める人間に満ちた。皇帝は護民官の権力を得た。自由を奪われた人民はつぎには貧困に追いやられた。AD37年カリグラ皇帝からネロ、ガルバ、オト、ウィテリウス、ティトス、トラヤヌスなどを経てAD138年アントニウス・ビウス皇帝までの間はまさに暴君の時代となった。この暴政はどこから来たのかといえば、ローマ人の一般的精神からきたといえる。商業や工藝を奴隷の仕事として、小麦の分配を受けて賭け事と見世物に夢中になっていた。カリグラ皇帝はティベリウス皇帝の「不敬罪」を廃止したが、いつでも裁判無しで軍隊の力で抹殺できた。皇帝の権力ほど絶対的なものはなかった。ネロ皇帝の後、植民地総督が相継いで皇帝になった。カエサル家の名望によって顕職が購われていたが、そのカエサル家もネロの時に廃絶した。絶えず打倒されていた社会的権力は軍事的権力に対抗できなくなっていた。軍団はそれぞれ皇帝を指名する習慣となっていた。兵士によって選ばれた六人の皇帝は狂気といえるほどの浪費家の暴君であった。AD98-117年のトラヤヌス帝は名君として知られ、パルティア人との戦争を勝った。ストア学派の影響でローマ帝国はアントニウス・ピウス(AD131- 161)とマルクス・アウレニウス(AD161-180)という賢帝を持つことが出来た。しかしそのあとがいけなかった。ディディウス・ユリア(AD193)は兵士から皇帝位を金で買った。普通軍隊から選ばれた皇帝たちは殆どがローマ人ではない外国人であり、時には蛮人であったという。このころ皇帝が色々な蛮族の風習を取り入れたことからキリスト教が急速に広まった。カラカラ帝(AD211-217)はその残虐行為を世界中に拡げ、兵士たちの給料を大幅に増額した。カラカラの後継者達は、分別のある皇帝は兵士たちによって殺され廃絶され、邪悪な皇帝は暗殺された。マクシミヌス・トラクス(BC235-238)は蛮族出身の最初の皇帝である。ローマの帝政はアジアの専制君主による絶対王政とは違って、軍事政権が皇帝をころころ変えているだけの一種の不正規な共和制という面も持っている。マルクス・アウレニウス帝以来、皇帝は支配地域ごとの2,3人の複数並立制となっていたが、ガリエヌス帝(AD253-268)の時には30人の帝位主張者が現れ30人潜主といわれた。AD268ー282年に、クラディウス、アウレリアヌス、タキトゥス、ブロブスという4人の傑物が現れて瀕死の帝国を再建した。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「偕楽園観梅」

2011年02月11日 | 漢詩・自由詩
常陸東風物候新     常陸東風 物候新に

水門楼閣会騒人     水門楼閣に 騒人会す

千波湖面猶含凍     千波湖面 猶を凍を含み
 
偕楽梅園已帯春     偕楽梅園 已に春を帯ぶ


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(韻:十一真 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 プロコイエフ、シュニトケ、ショスターコヴィッチ 「ヴァイオリンソナタ」

2011年02月11日 | 音楽
プロコイエフ「ヴァイオリンソナタ」作品115、56 シュニトケ「ショスターコヴィッチの思い出」 ショスターコヴィッチ「ヴァイオリンソナタ」作品134
ヴァイオリン:リディア・モルコヴィッチ ピアノ:クリフォード・ベンソン
DDD 1991 CHANDOS

プロコイエフ(1891-1953)、シュニトケ(1934年生まれ)、ショスターコヴィッチ(1906-1975)はいずれも旧ソ連を代表する現代音楽作曲家。