ブログ 「ごまめの歯軋り」

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政策別日替わり内閣の提案 これは新しい

2011年02月22日 | 時事問題
asahi.com 2011年2月22日0時57分
政権浮揚へ「再改造を」 国民新・亀井代表が首相に進言
 国民新党の亀井静香代表は21日、東京都内で記者団に、菅直人首相に再び内閣改造を行うよう進言したことを明らかにした。改造は1月に行われたばかりだが、亀井氏は野党を含めた幅広い勢力から閣僚を起用する「救国内閣」を勧めたという。 「予算関連法案が参院で否決され、衆院に戻るまでに改造しなければならない」と勧めた。首相は明確に返答しなかったという。

メディアは政権交代の政局しか興味が無いらしいが、政党の解体と問題別連立内閣の試みという別案があるようだ。民主党政権が立ち往生している中で、さりとていまさら自民党政権に戻るのも時代錯誤だしという状態では、政策別に連立を組むしかない。衆議院最大多数政党が首相を出し、首相が閣僚を党派に拘らず選任し有能な人に問題解決を任せる。これは現憲法内で出来ることだ。

前田耕作著 「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 岩波新書

2011年02月22日 | 書評
仏教の原義を求めて、長安からガンダーラへの旅 第2回

玄奘三蔵の歩いた道
往路:青ポイント 長安・西安 →秦州(しんしゅう)・天水(てんすい) →蘭州(らんしゅう) (別称:金城) →凉州(りょうしゅう)・武威(ぶい) → 甘州(かんしゅう)・張掖(ちょうえき) →粛州(しゅくしゅう)・酒泉(しゅせん) →嘉峪関(かよくかん) →玉門関 →瓜州(かしゅう) → (これより新疆ウイグル自治区)クルム・哈密(ハミ)(伊吾国) →トルファン(吐魯番)(高昌国) →クチャ(旧称:亀茲(きじ) →アクス(阿克蘇) →ウシュ(烏什) →(これよりキルギスタン)ペデル峠 →ビシュケク →(これよりウスベキスタン)タシケント → サマルカンド →プハラ →サマルカンド →テルメズ → カラテパ →(これよりアフガニスタン)バーミヤーン →カブール →(これよりパキスタン)カイバル峠 →ペシャワール → ガンダ-ラ仏跡 →タキシラ →イスラマバード →カシミール地方 →(これよりインド)マトゥラー → サヘート・マヘート(仏教八大聖地の一つ) →クシナガラ(インド 釈迦が亡くなったところ) →ワーラーナシー →パトナ → ブッダガヤ→ナーランダ

復路:緑ポイント カルカッタ→アジャンター→ (これよりパキスタン)カラチ→ モヘンジョダロ→ラホール→ カシュガル→(これより中国) ホータン→ ニヤ→ 楼蘭→ 敦煌→ 莫高窟→玉門関

文藝散歩 森鴎外著 「渋江抽斎」 中公文庫

2011年02月22日 | 書評
伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび 第11回

医家・考証家渋江抽斎の業績

 我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、吉田篁敦が首導し、狩谷液斎が継ぎ、抽斎と森枳園に及んだとされる。吉田篁敦の傍系には多紀桂山、狩谷液斎の傍系には市野迷庵、多紀苣庭、井沢蘭軒、小嶋宝素があり、抽斎の傍系には多紀暁湖、井沢柏軒、小嶋舟庵、海保漁村とがある。抽斎の医学上の著述には、素問識小、素問校異、霊柩講義がある。抽斎は蘭学を嫌っていたという。抽斎の詩は余技に過ぎない吟稿一卷が残っている。護痘要法は池田京水の説をまとめたものだが、江戸時代に刊行された唯一の書である。雑著には劇神仙話、晏子春秋筆録がある。中でも日記は42年間分が存在していたが、保氏が蔵し、親戚に預けたときに失われた。弘前医官の宿直日記である「直舎伝記抄」8冊、長唄「4つの海」の小冊子が残っている。抽斎が作った小説「呂后千夫」も人に貸し出され失われた。これらの著述のうち刊行されたものは「経籍訪古志」、「留真譜」、「護痘要法」、「4つの海」の4冊にすぎない。そのほかは皆写本で保氏が保管している。抽斎の修養は孔子の道を究めるためには六経を学ばざるべからず、これを学ぶにはかならず考証に須つということであった。この考えは師市野迷庵の教えに基づいている。堯舜の道は宋代の朱子学以来各々自説を固持している。伊藤仁斎、荻生徂徠など自説以外を邪道とする論説を張って、儒学を学ぶ人は大いに混乱している。結局古書を読む考証学に至らざるべからずということである。抽斎は「六経を読破したる上は論語、老子の2書にて事足りる」という。論語と老子を同列視のも師市野迷庵の説である。抽斎はついに儒(孔子)、道(老子)、釈(仏教)の三教の帰一に到着した。いかにも日本人的ないい加減さである。差異を弁じないでうやむやでしか理解できないのはまさに日本人の思考である。嘉永安政の時代は天下の士をして岐路に立たしめた。勤皇にゆかんか、佐幕にゆかんか、抽斎は勤皇に附いたというが、その由来は明確ではない。抽斎の父允成は師柴野栗山に啓発されたという。抽斎の師市野迷庵が勤皇家であったことは明白である。抽斎は勤皇家だったかもしれないが、攘夷家ではなかった。洋学の必要なことは理解しており、息子の成善には蘭学を学ばせるよう遺言を残している。安政3年(1856年)に蕃書調所が開設され、安政5年(1858年)には蘭法医を公認し、将軍家の奥医師に蘭法医が採用されている。抽斎の趣味は読書といわざるをえない。医書では素問を愛し、毎月説文会を催しては、小嶋成斎、森枳園、平井東堂、海保竹徑、栗本鋤雲らと集った。抽斎が読んだ小説は赤本、黄表紙、蒟蒻本であった。劇(芝居)をこよなく愛したことは劇神仙の号を持つことから伺える。照葉狂言、能楽、謡曲をたしなみ、古画を蒐集した。古武鑑、古江戸地図、古銭の蒐集家であった。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「暁霽春粧」

2011年02月22日 | 漢詩・自由詩
暁霽鶏聲動一陽     暁霽鶏聲 一陽動き

江村野景著新粧     江村野景 新粧著く

橋南雪骨迎春笑     橋南の雪骨 春を迎えて笑い
 
水畔紅桃待節芳     水畔の紅桃 節を待って芳し


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(韻:七陽 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)