ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

京都の老舗料亭 「京大和」の卯月懐石

2008年04月19日 | 京都案内
厚地料理長より  卯月の御献立のご案内 (二万五千円コース)


先 付   生雲丹と蕗の薹の胡麻豆腐
       芥子庵、白髪独活三つ葉、揚土筆

冷 菜   炙り貝と春野菜の黄身酢掛け
       平貝、鳥貝、うるい、芽キャベツ、グレープフルーツ   
       ちぎり木の芽

椀 盛   清 汁 仕 立  
       花弁豆腐、鮎魚女葛打ち、花弁独活 木の芽
                                     
造 り   明石鯛重ね盛り、車海老
       ねじ剣、大葉、寄せ花弁、山葵、紅白より、山葵の花
       割醤油、ちり酢

合 肴   豌豆の摺り流しとじゃが芋の峰岡寄せ
       美味出汁ゼリー、玉あられ

焼八寸  細魚筏寿司桜葉包み、鯛の子木の芽ゼリー
       穴子八幡巻き、若鮎蓼味噌焼き、菜の花芥子白合え
       サーモン、一寸豆、厚焼玉子串刺し、揚花弁、桜の枝

焚 合   筍土佐煮、巻き湯葉、蕗、木の芽

御 飯   浅利炊き込み御飯、赤出汁、香の物

果 物   清美オレンジと苺のゼリー寄せ、メロン

読書ノート 佐藤優著 「自壊する帝国」  新潮社

2008年04月19日 | 書評
元外務省情報分析官佐藤優がソ連邦崩壊の裏側を証言する  第9回(最終回)

最期に私のつまらない例え話であるが、私はなぜか最後のソ連邦大統領ゴルバチョフを徳川幕府最後の将軍慶喜と重ね合わせて見る。共通の性格がにじみ出てくる。まず最後の特権階級出身であること。ゴルバチョフは共産党官僚ノーメンクラツィーラであり、慶喜は水戸徳川家の出身であった。どちらも最高の貴族である。一応改革派のポーズで最高の位置に上りつめた。ゴルバチョフはペレストロイカを看板にしてソ連社会の再生を志した。慶喜は開明君主として幕藩体制の改革を謳った。しかし意志薄弱である。ゴルバチョフは共産党体制派に詰め寄られて独裁制に戻ろうとしたりぶれて政策に終始した。慶喜はいくらでも闘えたのに大阪から舟で逃げ帰ったり、天皇派公家に対する有効な手を打たなかったり優柔不断な性格である。そして自己保身だけが最後の希望であった。ゴルバチョフは何時までも大統領である自分にこだわって時勢がみえなかった。慶喜は大政奉還したのちも自分を長とする新体制を夢見たりしているうちに薩長に足元をすくわれた。そして最後に小心者であることだ。

読書ノート 内山融著 「小泉政権」  中公新書

2008年04月19日 | 書評
小泉首相 改革の5年半 政権の功罪と歴史的意義 第16回(最終回)

第五章 小泉政権が遺したもの (2)
小泉首相はロゴス(理性)よりパトス(情念)を好んだ。メディア宣伝やテレビを利用した「ワイドショー的政治」、「小泉劇場」は、たしかに閉塞した小市民は感情の捌け口として楽しんだようだ。悪の勢力の反対を押し切って進むヒーロ的演出というこの手法は、外交面で頑固な靖国神社参拝強行で中国韓国関係を破壊した。公的な帰結を熟慮せずパトスに基づいて行動することが、一国の首相として妥当なのか真剣に問われるべきであろう。ある意味ではブッシュの「悪の枢軸」や「テロ国家」と闘う英雄的アメリカなど原理主義的行動と通じるところがある。確かに小泉もブッシュもおつむの足りないところは似ている。最後に小泉首相のロゴスの無い迷答弁を挙げておこう。
「この程度の約束を守らないことは大したことではない」 居直り発言
「大量破壊兵器が見つからないといって、大量破壊兵器が無いと断定できるか」へ理屈にもならない発言
「何処が非戦闘地域か私に聴かれても分るわけが無いでしょう」政治家とはいえないむちゃくちゃ発言
「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」わるふざけ発言
昔、吉田首相が「バカヤロー」発言で衆議院を解散したことを思えば、小泉は随分議会をバカにして反省が無い。変人宰相の面目躍如というところだ。この発言で首相辞任に追い込めない野党が今や些細なことで安倍首相を辞任させたことの変化をどう考えたらいいのだろうか。当時の民主党の幹部のふがいなさと馬鹿さ加減も相当なものだ。

文芸散歩  「平家物語 」 佐藤謙三校註 角川古典文庫

2008年04月19日 | 書評

日本文学史上最大の叙事詩 勃興する武士、躍動する文章 第22回

平家物語 卷第四

厳島御幸
治承四年正月三日間は、後白河院のいる鳥羽には誰も参拝する者はなかった。これは入道相国が許可しなかったためである。二十日には東宮の袴着の儀式など執り行われ、二月二十一日高倉天皇譲位して東宮が位を継ぐことになった。これが安徳天皇である。三歳であった。入道相国夫婦も外祖となり准三后の宣旨を得た。何の落ち度もないのに天皇の座を追われた高倉上皇は都を離れたく思ったのか、相国のご機嫌を取り結ぶためか急に厳島神社御幸ということになった。これを聞いた叡山の大衆は怒って叡山に御幸なされるべしと騒いだが入道相国がなだめた。十八日高倉院は六条邸に入って鳥羽殿(後白河院)に逢う許可を得た。鳥羽殿と親子の対面を果たした高倉閑院殿は鳥羽より船に乗って厳島神社御幸に向われた。

還御
上皇は二十六日厳島神社に到着。公顕僧正が法事を執り行い、二十九日還御になった。厳島の蟻浦で冷泉隆房(後の歌の家柄 藤原定家)に歌を歌わせ、備前の国敷名に泊まり、三月六日播磨の国山田の浦から福原に入られた。ここで入道相国の家の者の賞行を行った。三月八日都へ向って鳥羽で上陸し相国の西八条邸に入られた。そして三月二十二日紫宸殿で新帝の即位の式が行われた。入道相国めでたきこと限りなしといわんばかりのご満悦の有様であったが、世間では今回の強引なやり方に苦々しく思う者は多かった。

自作漢詩 「桃李馨」

2008年04月19日 | 漢詩・自由詩


梨花淡白麦深     梨花は淡白 麦は深青

紅緑夭夭春満     紅緑夭夭と 春庭に満つ

村北水邊鶯語滑     村北の水邊 鶯語滑なり
  
橋南桃李十分     橋南の桃李 十分に馨る

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(赤い字は韻:九青 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)