第70回箱館歴史散歩の会のテーマは、「大正・昭和の大繁華街「銀座通り」と函館の基礎を作った高田屋嘉兵衛の歴史を学ぶ」だった。
コースは、馬車鉄道跡~市電操作塔~花かるた~消防本部跡~願乗寺川跡~高田屋嘉兵衛屋敷跡~銀座通り~錦輝館跡~蘭亭跡~綿羊飼立場跡~高田屋嘉兵衛資料館。
○馬車鉄道跡と電車操作塔
○馬車鉄道跡
函館の馬車鉄道は明治30年に弁天~東川間で始まり、明治44年に函館水電が買い取り、路面電車へと転換するまで続いた。路線も最盛期は、路面電車が最盛期だったころとほぼ同じで、軌道の幅も当時のまま。東京の馬鉄の技術指導を導入したので、軌道が東京馬鉄と同じなので、今でも中古の路面電車は東京都電しか対応できない。
○市電操作塔
路面電車のポイント切り替えを上から見て操作する塔。昭和14年から平成7年まで現役だった。一番多いときで、6棟あったそうだ。この操作塔が出来る前は、旗振りで、切り替えを行っていたらしい。
自分が高校時代(昭和35年頃)、下駄を履いてここを通ったときにポイントの切り替えにぶつかり、切り替えたレールに下駄の歯を挟まれたことがあった。慌てて外そうとしたが、なかなか外れない。この操作塔から見ていた係員が上で操作して外してくれたことを思い出した。
○花かるた(現在は居酒屋「花かるた」)
昭和9年の函館大火以降の建物で、総檜造り。もとは児玉商店という北海道における花札の総代理店だったそう。ちなみにこの児玉商店は幕末から花札販売をはじめ、2代目はマージャンを函館に普及させた人物だったという。
2階に掛けられている天狗印の看板は、明治期に京都の花札製造元より贈られたものだという。
○消防本部跡と願乗寺川跡(今の高砂通り)
現在の婦人センターの場所に、昭和9年の大火までは寶小学校が建っていて、その辻向かいには消防本部があり望楼が建っていた。消防署は自分の記憶では昭和50年代もここにあったはず・・・?
願乗寺川は、安政6年(1859)当時の願乗寺(現在の西別院)の僧堀川乗経が、五稜郭の堀を造った松川弁之助と共に企画し、開削した人工の川(長さ4km、幅4m、深さ4m)。それは亀田川を鍛治橋のあたりで分派し、中の橋を経て銀座通りにあった旧堀割に注いでいた。
この川によって飲用水に不自由することがなくなり、人口の東進のきっかけとなった。明治期に入り、この水を飲んでいた人々の間にコレラが流行し、明治21年に「新川」へと切り替えられて、埋め立てられ、今の高砂通りとなった。翌22年に上水道が新設されるまで、約30年間市内に飲用水を供給し続けた。
○高田屋嘉兵衛屋敷跡
寛政13(1801)年、嘉兵衛の後を継いだ弟金兵衛は、幕府の許可を得て、この地に5万坪を幕府から拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた。敷地の中には米倉数棟、雇傭者の長屋等を建て、屋敷には池や築山、庭木、奇石、石灯籠などを配していた。有名な亀石も、この庭に運ばせた。松前藩主を迎えて歓待するために、大阪か大勢の大工を招いて、屋敷を5軒も建てたとのこと。そのことが、ねたみを買うことになり、高田屋取りつぶしのきっかけともなった。
○銀座通り
(昭和11年の銀座通りの写真)
大正10年の大火の後、火事に強い町づくりが進められた。防火帯としての広い道路、鉄筋コンクリート製の不燃建築、3階建て以上の高さなどで66棟が建てられた。7割はキャバレーやカフェで一大繁華街だった。東京の銀座に模して柳も植えられた。しかし、昭和9年の大火で半分近く焼け、現在残っているのは10棟程度。
当時の建物に残る飾り(植物や果物が多いとのこと)
○錦輝館跡と蘭亭跡(現在のチサングランドホテルの辺り)
明治42年の日本最初の常設映画館と隣にあった中華料理屋。この蘭亭の息子が「函館ステップ」を歌った瀬川伸は瀬川瑛子の父親。
○高田屋嘉兵衛資料館
左は明治36年、右は大正12年の建物。当時はこの辺り一帯は埋め立て地で3島6橋で結ばれていた。
中で、館長より高田屋嘉兵衛の一生や業績についての説明を聞いて、展示を見て解散。