癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

京街道2日目・樟葉駅~56枚方宿~57守口宿~高麗橋(大阪)<35km>(8時間45分) 

2020年11月14日 | 登山・旅行

 今日は天候に恵まれて、予想したよりは距離が長く、時間は掛かったが、京街道のゴールの大阪の高麗橋まで歩くことができた。

 今日のスタート地点の樟葉駅の少し手前から大阪府だったので、昨日は京都府内の歩きで、今日は大阪府内の歩きだった。

 枚方宿と守口宿は、京街道の宿場町としての歴史を大切にし、観光資源として力を入れ、標識等も充実していた。お陰で撮った写真の枚数が多くて、精選するのに多くの時間を要した。

 ホテルを6時前に出て、樟葉駅へ移動。

樟葉駅~枚方宿

 6:40、樟葉駅から旧街道に出て、スタート。

 今日は、印刷した地図も見ないで、ひたすらスマホのGoogleマップの現在地の表示されるルート図を見ながら歩いた。

 赤線が旧街道、青丸が現在地。絶対間違わないはずだが、それでも、目の前の道路に引かれて、間違って進んでしまっては、戻ったりうろうろしたりする。

 

 上の地図の府道13号から旧道に入ったところ。今日の旧道歩きはここからだった。

 このあと、天野川の橋を渡ると、枚方宿へと入っていく。

枚方宿~森口宿

・枚方宿は京都と大阪の中間にあり、 淀川の京都伏見と大阪八軒屋浜とを結ぶ三十石船の寄港地として、また陸上の交通の要衝として重要な位置を占めて繁栄した。

・宿は岡新町村、・岡村、・三矢村、・泥町村の4ヵ村で構成され、東見付から泥町の西見付まで13町17間(1477m)あった。

・現在の枚方市は当時の建物や景観の保存に熱心で昔の宿場の面影が残されている。本陣1 脇本陣2 旅籠67 

 枚方宿東見附跡は、東の入口に当たる。大きな案内板には淀、伏見宿方向へ向う大名行列が「天野川」に差掛かり、見送りに出た宿役人が待受ける光景が描かれている。 ここを右折して、枚方宿に入って行く。

 すぐそばに番屋役人の屋敷が建っている。

 町に入っていくと、枚方宿案内図が設置されていて、ほぞんに力を入れていることが分かる。

 枚方市駅近くに大きな「枚方宿」の看板が立ち、近くに由緒ある旧家が残されている。 

 本陣跡と高札場跡の石碑もあり、カメラに収めたが、間違って消してしまった。

 

 繁華街の真ん中の「左近の辻」~角に文政9年の道標が残されている。正面に「右 大坂みち」、側面に「願主 大阪 和泉屋・・」とあり、「阪」 の文字は江戸時代は一般に「坂」の字が使われて「阪」の時は明治からというので、大変珍しい道標とこのと。辻向かいに「左近辻の道標」があった。

 繁華街から抜けて旧街道然とした道になると、このような旧家が目につく。

 やがて、旧街道は、淀川の堤防の歩きとなる。昔も古い堤防の上に街道が続いていたのだろう。

 土曜日なので、広い河川敷公園に並ぶ多くのグランドでは、少年野球やサッカーで、また、堤防や河川敷の道路はジョギングや自転車の人たちで大にぎわいである。それらを眺めながら快適な歩を進める。

 しばらく進むと、左側に「茨田(まんだ) 堤碑」が建っていた。説明板には「日本書紀に茨田堤の築造は、仁徳天皇十一年とあり、これは河川堤として本邦最初のものである・・・」。築造は難工事で、二ヵ所の「絶間」という場所に人柱を出すことになり、二人が選ばれた。一人は、機転をきかせて助かったという伝説が残っている。

 淀川新橋の下を潜ってしばらく進むと、土手の下「茨田樋之跡の石碑」というのがある。案内板によると、淀川から農業用水、生活用水を引き込んだ水門のようなもので、枚方ら毛馬まで八ヶ所あり、台風などの大水時に堤防が決壊するおそれがあるとして、すべてが廃止され、その跡が残っているのは、ここだけとこのと。

 堤防の道を1時間半も歩いて、ようやく左へ下りていく。6kmはあったろう。

 堤防から下りてからの路が非常に複雑でうろうろすることが多かったが、このような標識が目についた。右は路面の標識である。

 

守口宿~高麗橋(大阪)

57 守口宿(東海道57次)
・守口宿は江戸から57番目の宿場で、秀吉が造った文禄堤の上に造られた。南北約十町(1km)、東西は約1町(109m)の細長い宿である。

・大坂から2里の近距離にあったため旅人の宿泊は少なく、さらに時代が下がるとともに淀川舟運が発展し、交通量は少なくなってしまった。しかし、米・菜種・綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはた商業活動は活発だった。

・宿場通りには今でも伝統的は商家なども所々に残されていて、当時の面影をしのぶことができる。また豊臣秀吉が文禄6年(1569)に淀川左岸を修築して作ったいわゆる文禄堤の京街道は、その多くは消滅してしまったが、八島交差点から義天寺まで1kmほどに往時の面影が残っている。本陣1、脇本陣0  旅籠27 

守口宿一里塚跡~ここには、東見附もあったようで、ここが守口宿の実質的な入口となる。

 この難宗寺は、蓮如上人が開創したと伝えられる寺で、角に石碑が4本建っている。「左京 すぐ京」、「すぐ守口街道」などと刻まれている。山門左の3階建ては太鼓楼で時間を知らせる為のもののよう。

守口宿にはあちこちに幟が建っている。京街道より、東海道57次をアピールしている。本陣跡の標識も設置されている。

 難宗寺を右折すると、竜田通りを西に向かう。この通りでは市が開かれ、道幅も15mもあったという。問屋場や本陣があった所で、いわば守口宿の心臓部であったためといわれる。 道の左の駐車場が本陣跡である。

 八島交差点で、カレー屋を見つけて、昼食にした。タルタルチキン南蛮カレー。唐揚げが抜群に美味しかった。

 八島交差点で、すぐ左側の斜めの道に入り、ゆるい坂道を上がって行く。この先が「文禄堤」の上に存在した守口宿の跡が続いている。説明板を読むと、文禄堤は豊臣秀吉が文禄5年(1596)、毛利輝元、小早川隆景などに淀川左岸に堤を築かせたもので、京街道のうち27kmにも及ぶが、八島交差点からこの先の義天寺までの約1kmの間だけ残っている。

 街道は、回りより数段高くなって、左側の「京阪守口駅」の高架よりいくらか低いくらいの不思議な光景となっていた。
 守口宿が「文禄堤」の上に存在することがよく分かる。市街地を抜けて急な坂を下ると、宿の終りとなる。

 あとは、ひたすらゴールの高麗橋を目指して歩を進める。

 森小路京かいどう商店街~街頭の支柱にも「京街頭」と書かれ、その上に「京」の字をモチーフにして、京街道にある商店街をアピールしている。

 守口宿から先の旧街道には、多くの「京街道」標識が設置されている。

 やがて、アーケードの「京橋商店街」が続く。なぜ、大阪なのに京橋なのかと進んで行くと、大阪城の堀の上に架かる街道の橋が「京橋」だった。

 大阪城の堀に架かる京橋の上から高層ビルを望む。右は、陸橋の上から眺めた大阪城。

 大阪城の堀から離れて、広い府道「土佐通り」を進む。

 15:20、京街道(東海道57次)のゴール、「高麗橋」に到着。若い二人連れにシャッターをお願いした。

 江戸時代幕府が管理する公儀橋の中でも格式が高く、高麗橋は常夜燈の付いた風格ある造りとなっている。西詰めには高札場があり、江戸日本場と同じく、西国諸国への「里程元標」となり、石碑建っている。江戸時代はここが京街道の終点となり、明日から歩く中国街道(山陽道)の始点ともなる。

 これで東海道は日本橋から京都三条大橋までの53次と、大名行列が歩いた、大阪までの57次をすべて終了したことになる。

 このあと、心斎橋にあるホテルまでの道順を検索したら、3kmだったが、大して疲れもないので、歩いて向かう。

 16:20、Feel Osaka Yu(カプセルホテル)に到着。対応が素晴らしく、コロナ対策とセキュリティが非常に厳しいホテルだった。しかし、シャワーしかない。どうしても湯船に浸かって疲れを取りたい。そこで、近くの銭湯へ。

 宿泊代が3890円→GoToトラベル割引で2529円。さらに、ここも地域クーポン券1000円が付いた・・・助かる!

 銭湯から帰ったら、17時過ぎになっていた。それから、記憶を頼りに写真の選定。そして、ブログアップ。途中でギブアップし、翌朝に残し、夕食を食べに出た。地域クーポン券のお陰で、少しは贅沢できる。

 この手のホテルは、土曜日は混むはずだが、ガラ空きだった。これもコロナの影響だろう。

 今日の歩数計、56,000歩(ホテルからホテルまで)

 

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
山の方が簡単? (エバ)
2020-11-15 07:03:50
行った事の無い都会の道は、GPSがあっても迷いますよね。あっち行ったりこっちにもどったり・・と、見るもの全部同じに見えたりして方向も分からなくなるものです。

また、最初の計画より初日も二日目も距離が延びて大変でしたね。
ホントお疲れ様です。
旅はまだ序盤ですが、これからも頑張って下さい。応援しています
快調に (yama)
2020-11-15 09:31:42
おはようございます。
良い天気の中、快調に歩いていますね。
これからも、行ったこと、見たことのない街を楽しみにしています。
大阪京都間 (栄町住人)
2020-11-15 10:02:45
Sakagさん。ブログ中で切り取られた地図を拝見するまで意識していませんでしたが、鉄道路線が4本あるのですね。京阪の枚方と淀屋橋間以外は、全て乗車していた事を思い出しました。沿線は山崎合戦が有名すぎて、知識も無かったのですが、史跡の見落としをしていました。京阪沿線の戊辰戦争の淀城、京阪学研都市間の樟葉宮、学研都市の徳川家康の伊賀越え。新幹線から京橋まで乗換二回も、この程度しか頭の中には残っていませんでした。
同行している気分 (てくてく人)
2020-11-15 10:34:10
スタートして二日目、快調に歩くsakagさんの姿が写真の裏に見えます。
二日目が5万6千歩とあります。私もたまに5万歩越えの日もありますが翌日はもうグダグダです。
市街地内の旧道を辿ることは至難の業ですがスマホのGoogleマップは良さそうですね。これを使えばウロウロが減りそうです。
京街道の宿場案内、石柱、道標、などが充実している様子ですね。地域の人々の努力を感じます。旅人にはありがたいことですね。
天候にも恵まれ、ブログを拝見していると私も同行している気分になります。これからも無理をせず楽しい旅を続けてください。
エバさんへ (sakag)
2020-11-15 15:40:19
山パワーで頑張っています。
歩き旅は道間違いも想定内です。特に都会は交差点が多いので。

計画の距離は実測でないと思います。いつも、1割以上は増えますが、昨日は予想外でした。

昨日の分、短かった今日で疲れを抜いています。
yamaさんへ (sakag)
2020-11-15 15:42:16
知らない土地を歩くのは、とても新鮮です。
暑からず、寒からず、ほどよい天候に恵まれています。
栄町住人さんへ (sakag)
2020-11-15 15:45:04
大阪と京都は観光で回るには、見所がいっぱいあり、歴史好きにはたまりませんね。

今回は、旧街道歩きがメインなので、ほかには寄る余裕がありません。
てくてく人さんへ (sakag)
2020-11-15 15:49:16
昨日は2日目にしては歩きは過ぎでした。
その分、今日は楽してますが、疲れはありました。

Googleマップにコースを落としてくださっている方のお陰です。

いずれは、こちらの街頭もどうぞ!

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