展覧会のご案内をご覧くださったお客様から、温かなメールやお電話を頂戴しております。
「日本画、洋画を問わず、佐橋さんのところの作品は自分の好みにあっていて、好きです」
そうお伝えくださるお客様のお声を何よりも嬉しく感じて居ります。
まことにありがとうございます。
長谷川利行の作品は、皆さまに関心をもっていただけるところ。
そう思いながら掲載をさせていただきましたが、申し訳ございません、まだ価格の設定をさせていただいておりません。
大変申し訳ございませんが、もうしばらくお待ちいただけますようお願い申し上げます。
さて、山口薫と言えば、やはり京都の何必館(かひつかん)さんの事を思い出される方も多くいらっしゃると思います。
今週、私はその何必館さんの図録を見て過ごしました。
「いつも自分の絵の前にあることが一番楽しい。」
「絵を描く技術を身に着けたことは、なんとありがたいことだと思うこともある。」
というのは、薫自身の言葉ですが、
「思うこともある」
ありがたいことだと思うこと、、も 、、
いかにも薫らしいですね。
そしてこの図録の詩文のページに、
「ごくありふれた馬鹿のような顔をして私は街を歩く心たのしいとき」
という文を見つけました。
当店の作品には、「ありふれた」という言葉が見当たらないので
ちがった作品、或いは詩文の中からの抜粋だと思われますが、
このフレーズを薫は気に入って幾つか書いたのかもしれないなと思いました。
いずれにしても、薫の「小さな幸せ」を感じる詩です。
この図録には他にも山口薫の言葉が幾つか載っています。
美は形式ではない。
どこかもっと奥まった所に
それは何だろう
感性なのか
品のある絵を 画格
品のある絵を考えてみたけれども
夢のようでわからなかった
きたないと思うけれど何だかきれいだ
それが美術だ
以前にも書かせて頂きましたが、仕事にはその職種それぞれの「毒」があるように思います。一つの事を極めるという事は、偏るということ。何かを得るということは、何かがするりと落ちて失ってしまうことだとも思うのです。
薫は画家という仕事に救われながら精進し、けれどそれ故に失ってしまうものも十分にわかっていたような気がしています。
迷うということの美しさ。
体裁を整えて言えば、そんなことだろうと思います。
迷える者同士のつながり。
コレクターのみなさまと画商とのご縁も、案外そういったものかもしれず、
それなら尚更、細く長く、そのご縁をいつも心に感じていたいと願います。
今週は更新が余りできませんでしたので、明日にでもまた記事を書かせていただきます。
とてもお暑いので、どうぞ皆さま、ご自愛くださいますように。
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