つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

高村光太郎 著 「美について」

2018年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム


また時間がどんどんと過ぎていってしまいます。

先日ご紹介いたしました、岸田劉生に関する資料について。

特別なものを見つけた訳ではありません。いま読ませて頂いている高村光太郎の文章の中に、岸田劉生の文字を見つけましたので、それをご紹介したいと思いました。

芸術雑話 というタイトルから、文を抜粋させていただきます。







或芸術を見て其から受ける感動は色々あるが、その中で一番説明し難い、その癖一番決定的な感動は、その芸術の持つ「品」である。

品の無い絵画彫刻は到底なが持ちがしない。一時は人を魅する力を持つかも知れぬ。しかし必ず反対の時が来る。

功であるが、どうも心から推服出来ないと思う時が来る。

品の高下は芸術の高下を意味する。

この品というのは、普通にいう高尚な事を指すのではない。

気韻というようなものでもない。

清浄な仏画を描き、崇高な山獄を描き、超世間的な神話伝説を描き、高貴の人の肖像を描いて高尚だとしている類のものはない。

そういうものに、下劣な品を感じることがなかなか多い。

酔っぱらいの居る酒場を描き、平凡な路傍の風景を描き、卑近な目前の事物を描き、百姓 労働者 殺人者の肖像を描いても、品のある芸術には品がある。

自然と作品の裏から聞こえてくる芸術の品というものは、強いて言えば、作家の持つ純真な意力の響きである。

第一根元から湧き出して来る泉である。ここに些少の濁りがあっても、もうその芸術は曇る。

芸術の品はまた自然の深みへ潜み入った作家の粛然とした心の聲である。
燃え上がる火の牽引である。

そうして一歩一歩と誠実に道を開いていく作家の苦難の光である。

芸術の品は何にも換え難い貴重なものであるがここを口で言い表すことは到底出来ない。

如何に真摯に、巧妙に、奥深そうに、物ありげであっても、また如何に厭味なく淡々としていても、眩い程光彩陸離としていても、この第一根源は偽れない。

作家の真生活は悉く作品に暴露せされて、精精明々毫髪もおおわずである。


もう此稿を終わらねばならなくなったが、今の述べた品というものを本当に知りたかったら今年の二科会へ足を運んで、岸田劉生氏の作画をよく見られるのが捷径だと思う。芸術雑話は此処でお仕舞いにする。

大正6年9月









そして、この大正6年9月の二科展で二科賞を受賞したのが、先日の劉生展の図録でも紹介されています「初夏の小路」です。











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