この東海地方にも台風が近づいてきています。
昨夜から徐々に風が強まり、今は雨も強く降り出しました。
我が家は古い家なので、台風の来るたびに雨漏りの心配など、ヒヤヒヤ致します。
物干し竿をおろしたり、停電に備えて、懐中電灯やガスコンロの確認もしました。
あとは水の確保ですね。
そんな用意周到に準備をしながらも、昨日うっかりamazonさんに本の注文をしてしまったわたし。
自分のことしか考えていない証拠です☔️
せめて、折角この風雨の中を届けていただいたのだから、さっさと読み始めなくちゃ!と今日は少し読書をしています。
冒頭から面白いお話がありました。
江藤
「いつか小林さんにお会いしたとき、デパートの特売場へ、その辺の奥さんが出かけて行って自分のセーターやスカートを血まなこでで捜すというような時に、非常に的確に1番いいものを選ぶものだ、ということを言われたことがありましたね。
僕らが美というと、美はたちまち床の間にのっかってしまって、妙に抽象的なものになってしまう。特売場あさりというような確かさが無くなってしまうような感じが強いですがね。」
小林
「その点で、女の人は男の人より美を生活的に自然によく知っていることになるかな。ああいう人たちは、見るだけじゃない、買いたくなり、着たくなるのでしょう。美の生活上の実験をするわけだな。僕らはにはそれがないから、美について観念的にしゃべるように
なるのじゃないの」
中略
「経験だからおもしろいんでしょう。美というものは、見るとか作るとかいう経験です。物がなければ何もない世界ですからね。物に関する個人的な経験を他にしては何もない世界なのですからね。」
「ことに現代人はそうです。芸術家というと、なんでも造れるような顔をしている。鑑賞もこれに似て、自分の解釈評価次第で1万円のものを50円という事もできる。そんな気でいるのです。自己主張が好きなんだな。おのれの主張とか、解釈とか、そんなものに美があると思っている。そうじゃない、美はいつも人間が屈従するものです。物に自分をまかせる。そういう経験のうちに、伝統の流れというものが、まざまざと見えてくる。こんなことは分かりきった話ですけれども、インテリがなかなかそれに気がつかないということがある。例えば、私のところに現代の美術や音楽に大変関心を持った人が来る。美を論ずる種はいくらでも持っているのです。鐔が少しばかり置いてあるのを見ると、全く関心を示さない。古い道具が置いてあると思うだけなのです。実に不思議な気がします。これはもう一種の現代審美病なのです」
三島由紀夫の割腹についての二人の意見の違いを知りたいと思い取り寄せた本ですが、思いがけず「美」の話から始まり、夢中で読みました。
「小林は骨董のことを書いているのでしょ。」と言われてしまいそうで、事実、そうかもしれませんが、近代日本絵画における美の発見においても、何かそういった伝統、生活と経験により育まれ、鍛えらていく鑑賞眼というものが必要、大切な時代になってしまったのではないか?という気がふと致しました。
「美はいつも人間が屈従するもの。」
なかなか面白く、とても重い言葉だと思えます。
そして、それをちゃんと知っていた画家が確かに居たと思えます。
生活の中の美というと、確かに奥様方のショッピングの方にリアリティーが感じられるというのはよく分かります。
小林秀雄は歌舞伎役者が見栄を切るようなセリフを吐くので、これが面白いと感じられるかどうかで好き嫌いが分かれますね。(どうもアンチも結構いるようです)
だたこうした言葉は彼の美に対する実践の上に成り立つもので、私は説得力を感じます。(骨董体験はじめその他諸々)
小林秀雄対談集という当時の文化人との対談を集めたものも面白く読んだ記憶があります。江藤さんとの対談はまさにこの話でした。
大変楽しく読ませていただきました。
「小林の歌舞伎の見栄的せりふ」には笑えました。
けれど、近代というのは、案外この「見栄を切る」という自分の型を誰もが
探した時代だったように感じます。
私は集団にも個人にもやはり型というのは必要だと思っています。
それを守る為なら、不登校も引きこもりも必要だと思い、
今のネット社会もコロナも全て有り!だと思うのです。
ただ、その新しい型作りに、何か近代の人々の
経験や知恵は役に立つのではないかな?とこの頃感じるのです。
大金持ちの意味も力も、きっとみんなもう憧れたりしなくなるでしょうからね。
同じ見栄のキリ方なら、小林さんより吉本隆明さんの「冗談じゃねぇよ」っていうのが、個人的には大好きです。
スタイルといっても良いかもしれませんが、これを模索することは、時して「楽しみ」であったり「苦しみ」であったり、一概にポジティブなものとは言えないにも関わらず、そこから離れられない質のものだと思うのです。
現代では、「物事に対して時間をかけて咀嚼する」ことに抵抗を感じる人が多いのではないでしょうか。
早々と解決するためのツールに溢れ、それらを駆使し、あっさりと解決することが「デキる」人間の姿と思われている。(まあ、仕事上では確かにそうなのですが。)それが文化全般の領域でも、広がっているような気がします。
知識だけならWikipediaで十分。美術館で本物をみれば猶更OK。YouTubeで少し勉強すれば知人に語れるくらいにはすぐなれます。それほど時間はかかりません。
こうした行為にスマートな印象は受けますが、どことなく「軽率」で「切実でない印象」を受けたりもします。
「欲しい情報」が巷にあふれているのは、良いことなのか、そうとも言えないのか。
美術品を買って所有することは、全く「咀嚼」以外の何物でもないと思うのです。その「咀嚼」の上にようやく「型」や「スタイル」が出来てくるのではないかと。
自分の持っている型、スタイルに気付く、受け入れていく。その長い旅の良い友となってくれるのが美術品だと感じます。
美に屈従するってそういう意味だろうと思います。