ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




二軒長屋。中央区月島3-29。2008(平成20)年10月7日

清澄通りの1本裏の通りで、右奥のマンションの裏は月島川である。写真の家並みの右端が当ブログ前々回の 渡辺畳店。写真の裏通りを左手前に行くとすぐ下の写真の二軒長屋がある。
月島3丁目28~30番地は清澄通り沿いではビルが並んでいるが、そこから奥に入ると、建て替わっている家もあるのだろうが、今でもまだ戦前のままの木造の家屋や長屋がぎっしりと立並んでいる。2、30年前までは月島や勝どきではいたる所がそんな街区だったと思うが、今ではマンションに替わってしまったところが多い。
月島は埋め立てられてすぐ工場が進出したらしく、昭和40年頃までは工業地帯というイメージが強かったと思う。写真の長屋の向かいは、今では高層マンションが建つが、それ以前は石井鉄工所という大きな工場だった。そして労働者のための住宅が多く建てられた。今のマンションは銀座に近いことを言い立てるが、工業地域で工場と労働者の町だった頃は、住民の多くは深川のほうに親近感を寄せていたのではないかと思う。


堀口酸素工業所。月島3-29。2008(平成20)年10月7日

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芙蓉書房。中央区月島3-28。2001(平成5)年10月20日

清澄通りに面した区立月島第一小学校の向かい側。柱の上のレリーフの模様や軒の飾り帯を目立つように濃い色で塗った洋風看板建築だ。建物は健在だが、2005年2月に「二ノ酉」という居酒屋に変わった。
下の写真では清澄通り沿いの隣は空地と日本家屋だが、現在はそれぞれの敷地に2棟のビルが建っている。この並びは、昭和20年代の火保図では月島通5-8の住所で「月島印刷KK、岩城クスリ、杉森」。また、昭和10年頃の火保図の住民の記憶による書き込みでは「江島印刷、東雲堂パン屋、杉森ソバ屋」、芙蓉堂書店の後ろが「今川焼」という記載だ。印刷屋として建った家なのだろうか?


1988(昭和63)年1月17日

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渡辺畳店。中央区月島3-30。1988(昭和63)年1月17日

清澄通りの月島橋の北の横町を西へ入ったところ。清澄通りの裏通りとの角が 渡辺畳店、そして三軒長屋と看板建築のような橋本鍼灸院が並ぶ。鍼灸院は四軒長屋の1軒を改装したものらしい。
現在も渡辺畳店と三軒長屋は残っている。渡辺畳店の外壁は改装されて和風下見板の外観ではなくなった。鍼灸院の前面の造りは戦後のものだろう。2階の前面に1部屋増築したのに合わせて1階も改修したのだと思う。2008年10月に撮った写真では変わっていないが、ストリートビューで見ると5階建てのビルに替わっていた。


橋本鍼灸院。1989(平成1)年11月26日

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新逢橋。小田原市栄町3-19、20。2010(平成22)年7月9日

国道255号線の広小路交差点から南にまっすぐ通っている道路がある。その道路を少し南にいったところで古い橋を見つけた。下の川は下水くらいにしか見えず、橋といってもごく小さいもので、長さよりも幅のほうが何倍もある。「新逢橋」「昭和三年十一月架橋」の表札がはまっていた。
調べてみると、川は渋取川という。『 国土地理院>2万5千分の1地形図』では、小田原駅の北に見える山の、裏の谷が源流のようで、市役所の少し西から川の表示が現れ、国道1号線の山王橋のすぐ北で山王川に合流している。川のほとんどは点線で表されている。つまり暗渠になっている。Googleマップなどを見ると、何箇所か水面が顔を出すところがあり、新逢橋もそんな箇所である。

渋取川は小田原城の東の備えとして土塁を築き、その外側に堀の代わりに通したものという。地面を掘って土塁を盛り上げ、掘った跡に水を引き込んだということだろう。川自体が小田原城総構(そうがまえ)の遺構なのであった。「蓮上院裏外郭土塁跡」という史跡が残っているそうだが、ぼくは知らなかったのでまだ見ていない。
小田原町詳細図(1929年)』ではまだ暗渠になっていない川筋をはっきりたどれる。この地図では渋取川の東は水田である。そこは酒匂村とか足柄村で、小田原町の外だったらしい。水田の縁に沿って流れる渋取川を見ると、江戸時代には農業用水路として整備されたのではないかとも思う。



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鈴木精米店。神奈川県小田原市栄町3-9。2010(平成22)年7月9日

栄町3丁目は小田原駅の東北の方角、歩いて10分といったところだ。町の中央を国道255号線が南北に走っている。写真の通りがそれで、栄町三交差点は町のほぼ中心といった位置だ。
その交差点から通りに沿って4軒の古い商店が並んでいる。写真左から、鈴木精米店、熊繁商店(工務店)。この2軒は出桁造りになるのだろうか? 熊繁商店の隣は蓮華というラーメン屋。赤提灯が出ていてそれと分る。夜にならないと開店しないとHPにあった。看板建築のような正面の家が長崎モータース。車の整備工場のようだ。



理容久保田。小田原市栄町3-17。2010(平成22)年7月9日

栄町三交差点から国道255号を北へ少し行った向かい側にある元理髪店。ガラス戸に貼られた紙には「体調不良により二月末日を以って廃業致しました。長い間御愛顧賜りありがとうございました。店主」とあった。店のご主人も仕事をやめて余生を好きなことをしてのんびり過ごす、ということになればいいのだが。店の横を奥に入ると家の壁に壽屋百貨店が寄贈した住居表示板が残っていた。

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謝謝(シェーシェー)
神奈川県小田原市本町2-14
2010(平成22)年7月9日

かまぼこ通りとも言われる旧東海道の道筋が国道1号線にぶつかる手前。なりわい交流館の斜向かいにあった中国点心を出すスナック。関東大震災後に建てられた洋風看板建築と思われるが、レリーフの文字が読み取れないのが残念だ。写真の年季の入ったアーケードは架けなおされたが、まだ写真のままのタイプのアーケードも場所によっては使われている。謝謝の建物はまだあるようだ。
謝謝の向かいには、「宮前町(みやのまえちょう)」の旧町名石碑、「明治天皇小田原行在所跡」、「清水金左衛門本陣跡」、古清水旅館とそこの主人が設置した小田原空襲の説明版などがある。写真右の路地を入るとすぐ正面が「小田原宿総鎮守」の松原神社。小田原宿の中心地だっただけに名所には事欠かない。
ここから東北に入った辺りは、スナック・飲み屋・風俗店などが集中している。小田原の人が「宮前町」と聞くと「吉原」とか「新宿歌舞伎町」に近い語感で受け止められるらしい。




左:しまづ電機。小田原市本町2-10。2010(平成22)年7月9日
右:港月堂。小田原市本町2-13。2010(平成22)年7月9日

松原神社のある裏通りで、「宮小路」の旧町名石碑がある通り。両側にある商店には廃業してしまった店が多い。下見板の元商店は、巻き取った日除けに「港月堂」の文字が読めたがなにを商っていたのかは分らない。

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小田原籠清。神奈川県小田原市本町3-5。2010(平成22)年7月9日

国道1号線の本町交差点の海側の裏通りで、昔は千度小路といったところ。籠清は1814(文化11)年創業の蒲鉾の老舗で、写真の出桁造りの家が本店の店舗である。この辺りまで来る観光客は少ないのではないかと思うが、支店で補っているのだろう。同じ通りにあった鈴廣の本店は風祭に移してしまった。
建物は関東大震災で壊れた家を大正13年に建て直したもの。昭和20年8月15日の終戦の日、この辺りに空襲があり、ほとんど隣まで焼失している。籠清の建物も危なかったのではないかと思う。
「加古清」の看板の文字は三井物産の創設者、益田孝の揮毫。益田は鈍翁の名前の茶人としても有名で、テレビの美術番組や『開運!なんでも鑑定団』でも名前を聞く。益田は1906(明治39)年に小田原市板橋に掃雲台という別邸を造営しているから、小田原ゆかりの有名人である。



籠常商店。小田原市本町3-2。2010(平成22)年7月9日

籠清の前を少し東にいった向かい。籠常は明治26年創業のかつお節の製造販売の店。「街かど博物館」のひとつ、「かつおぶし博物館」にもなっている。店の間口はそう広くはないが奥がかなりあり、店の裏手はかつお節の製造所になっているのだと思う。

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旧魚網問屋。神奈川県小田原市本町3-6。1991(平成3)年8月22日

国道1号線が直角に曲がって西へ向かう角にある旧商家。この辺りは東海道小田原宿の中心だったようだ。現在は下の写真のように「小田原宿なりわい交流館」と称する「お休み処」や観光案内所の施設として活用されている。平成13年9月の開館。
小田原市>なりわい交流館』によると、建物は関東大震災で壊れた商家を昭和7年に再建したもの。その壊れた家の木材などを再利用して、ほぼ同様の家を建てたのかも知れない。小田原の古い商家に多い出桁造りの家。魚網の問屋を営んでいたという。


小田原宿なりわい交流館。2010(平成22)年7月9日


交流館の後ろにある民家
2010(平成22)年7月9日

この辺りは小田原名物の蒲鉾の店やその製造所が集中している。また昔は、すぐ近くの浜辺に魚が陸揚げされて魚市場もあった場所である。写真の、反り返った屋根が特徴的な出桁造りの家も漁業か魚の加工業に関わった家なのだろうか。

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