あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 刀を収めろッ 」 と 大喝しました

2016年12月04日 15時51分17秒 | 尾鰭

 片倉衷少佐
大雪の朝
当時、私は陸軍省の軍務局におりました。
ちょうど相沢事件の公判が進行中で、
裁判長の佐藤正三少将が橋本近衛師団長や林陸軍大臣などを証人喚問していました。
永田軍務局長が刺殺されたとき、たまたま私は参謀本部から陸軍省に転勤し、
軍事課勤務として現場に居合わせたこともあって、この相沢事件の軍法法廷には多大の関心をもっていました。
そして、かねてより佐藤裁判長の公判の進め方に、疑問を抱いていた私は、
上司である村上軍事課長と今井軍務局長に、裁判長を取り替える必要があることを、進言したのです。
これが昭和十一年二月二十五日のことでした。
その日の夜、一晩中隣家の犬が吠えて寝つかれなかったことを記憶しています。
朝 起きると雪がかなり降り積もっていました。
その日は、前日に続いて陸軍大臣に意見具申するつもりでいましたので、
いつもより早く起きて、中野の新井の家を出ました。
雪を踏んで中野駅に近い三差路まで来ると、警官が四人、ものものしい警戒態勢で、
軍刀を吊りマントを羽織った私を呼び止め、行き先を尋ねるのです。
陸軍省へ出勤する旨を伝えると
「 今朝、神兵隊事件以上の大事件が起り、陸相官邸にも何かあった模様だ 」
と、警官はただごとならぬ口調です。
私はとっさに、これは青年将校の蹶起だ、と考え、自宅にもどって拳銃を携行しようと一瞬考えましたが、
むしろそのほうが危険だと思いとどまり、その場から円タクを拾って三宅坂の陸軍省へ急行しました。
途中、車が電信隊の営門の前にさしかかったとき、見るといつも一人しかいない歩哨が六名もいて、
いずれも銃に着剣しています。
これは非常呼集があったものと判断して、タクシーの中で、ひそかにマントの下の軍刀の具合を確め、
鯉口をいつでも抜けるようにしておきました。

青山から赤坂見附を抜け 平河町の三差路に来ると、
機関銃を持った兵隊が四、五十名並んでいて、車を通してくれません。
これが反乱軍との出会いの最初ということになります。
車から降りて 兵卒に 「 小隊長を呼べ 」 と 命じたところ小隊長がすぐに来たので、
「 陸軍省の職員だ 」 と 告げると通ってもいいという。
徒歩で陸軍省へ急ぎながら、大蔵大臣官邸や首相官邸のほうを見ますと、
一、二の兵隊が動いているだけで非常に静かでした。
陸相官邸の手前の銅像のあった附近へさしかかると、再び銃剣を構えた兵隊が私の通行を阻止します。
中隊長の命令がないかぎり通すわけにはいかないというので、中隊長を呼び
「 貴官はいったい誰の命令で動いているのか 」
と 詰問すると、しばらく考えた末、
「 同志の命令です 」 という。
そこで私は 「 兵を動かすには天皇陛下のご命令でなすべきで、同志の命令などで動くべきではない 」
と さとしました。
周囲にいた兵隊たちが、天皇陛下という私の言葉に、一斉に直立不動の姿勢をとったのが、緊迫したやりとりの中で印象的でした。
次いで中隊長を同行して官邸門前にくると、閉門されて、若干の将校が動いています。


門を入っていくと、ちょうどそこへ参謀本部員菅波中佐が来合せました。
私と菅波中佐は名刺を出して 「 大臣に会わせろ 」 と中隊長に要求し、官邸の前庭に立っていました。
        
石原大佐          真崎大将                       古荘次官             山下少将                          斎藤少将

そこへ石原莞爾大佐 ( 参謀本部作戦課長 ) が官邸の内部から出て来ました。
一瞬私は、石原さんも反乱軍に与くみしたなと思いましたが、そうではなかったことがやがてわかりました。
しばらくすると、官邸玄関に古荘幹郎次官が現れたので、私は次官にも大臣への面会を申し込むと、しばらく待ってくれという。
そこへ陸軍大将の正装をした真崎甚三郎が現れました。
石原大佐が真崎大将に向って
「 これは、あなた方の責任ですよ。早く収めなければいけませんね 」
と 語りかけるのを私は耳にしました。
先の中隊長は、やがて官邸から出てきて
「 大臣にお会いになることはできません 」 という。
「 それは大臣自信の言葉か 」 と ただすと、「 香田大尉の言です 」 と 答える。
そこで私はそこへ居合わせた数名の憲兵に
「 君らは何をしているんだ。大臣の身近は大丈夫かッ 」 と 怒鳴りました。
官邸内には斎藤少将、山下少将の姿も散見されました。
続く中隊長の言によると、大臣はこれから宮中に参内するところだという。
私は反乱軍の武力に強要されて大臣が上奏するというのは由々しきことだと考え、
何としてでも、玄関先ででも大臣に一言しようと思っているところへ、左側にふと人の近づく気配を感じ、
同時に、ガンと左頭部に衝撃を受けました。
思わず右によろめき、手袋のまま左手で左頭部を押さえながら振り返ると、
歩兵大尉の軍服を着た将校が抜刀して近づいて来ます。
私はその男が私を撃ったなと思い、その将校に向って 「 刀を収めろッ 」 と 大喝しました。
そのとき、玄関先にいた古荘次官か真崎大将かが
「 皇軍将校同士で血を流してはいかん 」 と 叫んだようでした。
私を撃った大尉を、私は香田大尉だと思っていましたが、のちに磯部浅一であったことを知りました。
磯部は偕行社か何かの青年将校の会合で私の顔を覚えていたらしいのです。
磯部が刀を収めたので、私は山崎大尉、谷川大尉、生田大尉らに介添えされて反乱軍の歩哨線を突破、
赤坂の前田病院に入りました。
ピストルの弾丸たまは幸い 骨が二重になっているところの二枚目で止まり、文字どおり間一髪で助かりました。

片倉衷
『 大雪の朝、私は 』
決定版  昭和史 二・二六事件前後 昭和9--11年  7  から
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天皇陛下の命令でヤレ
エイッ この野郎、ウルサイ奴だ、まだグズグズ文句をいうか

国家の一大事でありますぞ!
弾圧 「それでは、軍中央部は我々の運動を弾圧するつもりか」

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