あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

片倉衷 ・ 二・二六事件を語る

2016年12月06日 15時55分40秒 | 尾鰭

磯部はなぜ私を撃ったか
十一月事件で磯部が停職になりました。
その後、磯部はちょっとした事件を起して免職になりました。
そうさせた張本人が僕だと彼等は想定していたんです。
磯部は私を恨んでてたのです。
しかし、あの事件の背後には彼等がいたということは間違いないし、
辻君が佐藤勝郎候補生あたりを使って調査したということも間違いない。
しかし、よく言われているように永田軍務局長の指示により、私と辻が事件をデッチ上げたというようなことでは断じてない。
私は参謀本部員であり、陸軍省の軍務局長から指示や命令を受ける立場になかったのだから。
・・・陸相官邸で撃たれた時、倒れたまま何か言われたそうですね。
「 天皇の命令なくして兵を動かしちゃいかん 」 と、叫んだのです。
撃った将校は香田とばかり思っていてたが、実際は磯部だった。
免官になっていたのに歩兵将校の軍服を着ていたからわからなかった。
・・・当時、事件が起りそうだという雰囲気を感じていらっしゃったでしょうか。
一週間ほど前にわかっていました。
当時私は軍務局軍事課満洲班にいたのですが、今も生きていますが、部下に三品という者がいて、
三品の友達で元大尉だった松平という者から 「 歩三の連中が渡満を前にコトをあげるそうだ 」 という話を聞きこんできました。
それを聞いて、私は陸相官邸室で憲兵司令官とか次官などがいるとき、
「 コトが起りますよ 」 と 忠告したことがあります。
憲兵司令官が 「 どこからの情報だ 」 と 聞いてきましたが、「 どこからということは言えない 」 と 言ったのです。
・・・二月二十六日ということもわかっていたのですか。
二月の下旬ということだったですよ。

私はテロには反対だった
私は昭和八年八月に参謀本部の第二部第四課四班に入ったのです。
陸軍士官学校事件もこのポストにいたときの事件です。
ここは情報の統合、防諜関係、国内情勢等の処理を行うところで、
入ってすぐ当時まだ続いていた五・一五事件軍法会議の特別傍聴人になった。
これも一つの任務だった。
青年将校の動向はそれ以前からずいぶん心配していたことの一つです。
参謀本部に入る前は、満洲の関東軍にいて、そこから久留米にあった第十二師団に転属になった。
五・一五事件の定期異動のときです。
十二師団では教育関係の一部と警備、国防宣伝を仕事とする幕僚勤務を命じられた。
当時久留米には五・一五事件の残党がたくさんいましてね。
連中を集めて懇談したり、後援会で演説したりしていた。
私は五・一五事件のようなことをやっちゃいかんということを主張していたのです。
満井佐吉君も久留米師団の大隊長をしていましてね、この人も盛んに講演活動をやっていたが、
私の行き方とは違っていたことはもちろんです。
・・・いわゆる青年将校がやろうとしていた国家改造の方向とはちがっていたわけですね。
当時、荒木さんのところなどに青年将校が盛んに出入りしていて、
隊付の将校の中には師団長や聯隊長といった上官の意見より荒木さんの意見を尊重するといった雰囲気が強かった。
これでは軍秩がうまくいかない。
私はそういう状況を憂えていたのです。
そこで 『 筑水の片言 』 という小冊子を作って、自分の所属する師団の杉山師団長や石田参謀長をはじめ、
本庄中将、南大将、荒木陸相、永田少将、石原大佐など要路の二十数名に配ったことがあります。
・・・国家改造の方向としては一言でいえばどういう立場を表明されていたのでしょうか。
それは、満洲事変をきっかけにして、国民も軍部に協力しようとしているこの時期をとらえて、
この勢いを利用して陸相が強力に総理大臣を動かして国政の検討をやらなければいけないというものです。
・・・軍部が主導権を握るとしてもあくまで内閣を通じてということですか。
そういうことです。
私はまもなく久留米から参謀本部に転属になりましたが、班長の武藤さんに挨拶にいったとき、
「 君、これはやらんだろうね 」 と 人差し指を曲げて拳銃をうつ真似をするので、
「 イヤ、私はそっちのほうじゃない 」 と 言ったのです。
『 筑水の片言 』 には日本国家の内容はこのままではいけない。
直すべきところは直さなければいけないと書いたけど、革命を示唆することは一切ないのです。

同志を誘って国家改造研究会
・・・そういう国家改造の内容について、研究会を主宰されたことがありましたね。それはどういうきっかけからですか。
直接には当時陸軍大臣の秘書官をやっていた若松二郎さんから声をかけられたことだったのです。
とにかく所謂青年将校運動というのは活発でしたからね。
五・一五事件以後は海軍との連携はなくなっていたのですが、八年から九年にかけて、
参謀本部と陸軍省の中堅幕僚が青年将校運動の指導的立場にいる者と何回か会って話を聞いたことがある。
満井佐吉、村中孝次、西田税といった人たちですリンク→統制派と青年将校 「革新が組織で動くと思うなら、認識不足だ」
しかし、話を聞くにつけ 私が不安を強くしていったことは事実です。
それはやはり彼等が非合法的な何かをやるのではないかといった不安です。
しかし、もし事態がそこまで進んだら、逆にそれを利用して新しい世界に導くこともできるのではないかとも考えたのです
そういう考えに取りつかれ始めていたころ、若松さんから何とか今の事態に対する対策を研究してくれという話があったので、
それではやってみようということになった。
・・・どういうメンバーを集められたのですか。
若松さんと参謀本部の服部卓四郎、辻なんかと相談して決めたんですがね。
真田穣一郎、河越重定、板間訓一、中山源夫、永井八津次、島村矩康、久門有文、西浦進、荒尾興功、堀場一雄、加藤道雄などで、
いずれも当時大尉です。私も当時は大尉でしたから。
・・・片倉さんがリードされたのですか。
私より上席の人もいたのですが、『 筑水の片言 』 を配布したり、
研究会を始めるにあたって 叩き台のつもりで書いた 『 瞑想余禄 』 と題して自分の所感を綴ったものを配っていたこともあって、
私が座長ということになったのです。
・・・研究はどれくらいの機関でまとめられたのですか。
第一回は 八年十一月七日で、翌年一月四日には要綱をまとめた。
・・・『 政治的非常事態勃発に処する対策要綱 』 というのがそれですね。
そうです。それ ( 『 政治的非常事態勃発に処する対策要綱 』  ) が二・二六事件のとき、暴徒鎮圧に役立った。
対策要綱はそういう事態をも想定したものだったからです。
・・・国家改造の方向も盛り込んであったわけでしょう。
もちろんです。
あれを読んでもらうとわかりますが、
軍部主導のもとでなるべく早く革新を断行するが、非合法手段の直接行為はとらないと謳ってあるのです。
・・・その案は軍部の正式採用となったものですか。
秘密に採用された形になったと言っていいのです。
というのは、研究メンバーが陸軍省と参謀本部の各部署からきていますから、
それぞれのメンバーがそれぞれの上司に報告する形をとったのです。
軍部の首脳部の間では、「 大体この方向でいこう 」 ということになっていたはずです。
・・・そういう研究案は軍部の中では初めてのものだったのでしょうか。
いや、そうじゃないんです。
そういう研究案があるということは、参謀本部に移ってからウスウス気づいていたのですが、
偶々 武藤班長が海外出張をして留守をした。
或る日、仕事の必要から金庫を開けて ある書類を捜していた時、偶然に発見して、
失礼かと思ったが 読ませてもらったことがある。
しかし、内容は要綱書き程度の疎略なものでしたよ。
・・・それはどういうメンバーが研究していたものですか。
陸軍省調査部長の工藤義雄少将を中心として、
永田鉄山、東条英機、武藤章、影佐貞昭、池田純久、田中清 などの将、佐官クラスですね。
これを読んだとき、将、佐官クラスではダメだ、やっぱり我々尉官クラスがしっかりしなければ
という気持ちを強く持ったものです。
しかし、 『 瞑想余禄 』 にしても それを下敷きにした 『 対策要綱 』 にしても、
よく書いたものだと、おかしいくらいだが・・・・。

青年将校の心情は尊敬するが・・・・
・・・片倉さん等と青年将校との間の国家改造に対する取り組みは結局どういう点に違いがあったのでしょうか。
歴史的には皇道派と統制派の争いということになっていますが。
池田純久さんは統制派と言っていたし、満井佐吉君は皇道派と名乗っていたな。
しかし、実際はそういう区別というものはなかった。
・・・片倉さんは第四班にいたとき、全国各地をまわって若い将校達の意見を聞いてまわったということがあるそうですが、
具体的には彼等はどういう不平不満があったのでしょうか。
満洲事変の後のことですから、若い将校の間にはしっかりしなければという雰囲気が強かった。
そういう気持ちに対して、聯隊長あたりが案外のんびりしていることに対する苛立ちというものがあったと思います。
聯隊長への不満というのは直接中央部幕僚に対する不満ともなっていたわけです。
その点、荒木さんあたりはそういう元気のいい将校から意見を求められると、
はっきりものを言うので人気があったわけです。
・・・当時の慢性的な不況から来る農村の疲弊というものが、二・二六事件の背景になっていったということですが、
そういう問題に対する政治への不信、不満という声も当然あったわけですね。
農民は軍の下部を作っているわけですから、兵に直接接している若い将校の間からはそういう不満が強かったわけです。
聯隊付の将校団に対する教育が足りないという印象でした。
しかし、全体にはやはり農民の窮状や大資本と一般国民との遊離、或は政党が政争ばかり繰り返して
何等 庶民の窮状を救おうとしない現実があったわけで、それに対する青年将校の強い不平不満があったことは事実でした。
私もこういう状況は何とか早く解決しなければ大変なことになるという気持ちを強く抱いたものです。
・・・なんとか解決しなければならないと思ったところは、青年将校と同じだと・・・。
二・二六事件を引き起こした青年将校は 荒木とか真崎といった一部の将軍と結びつき、
それを 北一輝とか磯部とかが煽動したんです。
私等は組織を動かして革新をやろうとした。
それが決定的な違いです。
革新への心情というところでは 重なるところがあるんですが、彼等の手段がね・・・・。
私はピストルで撃たれましたが、ある程度は彼等の心情については尊敬するところがあったのです。
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片倉衷元少将  二・二六事件を語る
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