処刑前夜・・・時ならぬうたげ
栗原中尉が
鞭声粛々・・・・
と 声を張り上げて 「 川中島 」 を吟じた。
みな謹聴するかのように静かになった。
終わると
拍手が起こった。
栗ッ、貴様は何をやってもへたくそだが、
いまの詩吟だけはうまかったぞ
と 中橋中尉がどなった。
一人が軍歌を歌いはじめると、
それがいつか合唱に変わっていた。
私は彼等が楽しく宴会でもやっているのではないかと、
錯覚するのがしばしばであった。
錯覚しながらも私の両眼には涙がにじんでいた。
澁川善助
遠くの方から
「 観音経 」
を誦ずる声が、腹わたにしみいるようにきこえてくる。
騒音を縫ってくる朗々たる誦経は、耳をすませば澁川善助のなつかしい声だ。
・
昭和九年九月、( 二十八日 )
いまから数えて一年十か月まえ、千駄ヶ谷の寓居において私の母が急逝したとき、
真っ先に駆けつけてくれた澁川があげてくれたのも 「 観音経 」 で あった。
・
あのときと いまでは立場を異にして、
澁川が自分自身をふくめて
十七名の死をまえにしての誦経には、悲壮な響きがあった。
夜の白みはじめるころ、
香田大尉の音頭で君が代が斉唱された。
つづいて天皇陛下万歳が三唱された。
・・・・
二・二六事件の挽歌 大蔵栄一 「長恨のわかれ」