あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

処刑前夜・・・時ならぬうたげ

2021年02月12日 11時48分34秒 | 大蔵榮一

処刑前夜・・・時ならぬうたげ

栗原中尉が
鞭声粛々・・・・
と 声を張り上げて 「 川中島 」 を吟じた。
みな謹聴するかのように静かになった。

終わると
拍手が起こった。

栗ッ、貴様は何をやってもへたくそだが、
いまの詩吟だけはうまかったぞ

と 中橋中尉がどなった。

一人が軍歌を歌いはじめると、
それがいつか合唱に変わっていた。
私は彼等が楽しく宴会でもやっているのではないかと、
錯覚するのがしばしばであった。
錯覚しながらも私の両眼には涙がにじんでいた。
澁川善助
遠くの方から
「 観音経 」
を誦ずる声が、腹わたにしみいるようにきこえてくる。
騒音を縫ってくる朗々たる誦経は、耳をすませば澁川善助のなつかしい声だ。

昭和九年九月、( 二十八日 )
いまから数えて一年十か月まえ、千駄ヶ谷の寓居において私の母が急逝したとき、
真っ先に駆けつけてくれた澁川があげてくれたのも 「 観音経 」 で あった。

あのときと いまでは立場を異にして、
澁川が自分自身をふくめて
十七名の死をまえにしての誦経には、悲壮な響きがあった。

夜の白みはじめるころ、
香田大尉の音頭で君が代が斉唱された。
つづいて天皇陛下万歳が三唱された。
・・・・

二・二六事件の挽歌  大蔵栄一 「長恨のわかれ」