あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

万民に 一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が 我々を暴徒と退けられた

2021年02月20日 11時35分50秒 | 中橋基明

 
大元帥天皇陛下 


中橋基明中尉の死

近歩三聯隊長、
園山大佐は 中橋基明の叛乱参加の責任を負って退任したが、
その後任聯隊長、
井上政吉大佐は 七月一一日同隊の中橋を刑務所に訪ねた

中橋には家族以外は ほとんど面会人がいなかった。
近衛師団の事なかれ主義者のお利口さんたちから見れば、
中橋基明の名はすでに抹殺されたに等しい忌避すべき存在であったろう。
聯隊で中橋を慰問することが知れれば白眼視されかねない。
その点、名古屋六聯隊から転入した井上は大柄でどこかヌーボーとしていた。
中橋は明日 処刑されることを知っていた。
この日、すでに昼食に菓子と果物が特別に出る。
全員が入浴させられ、新しい獄衣が支給された。
これが刑務所側からのサインだった。
そして面会所には立看板が用意される。

明日一二日は、日曜日で面会できません 

「 園山聯隊長殿は、いかがされたのですか ? 」
「 辞職退任した。貴様のせいだぞ 」
「 貴様の中隊は宮城を一時たりといえども反逆占拠した、近衛聯隊史で最大の汚点だ 」
「 反逆などそんな・・・。
蹶起目的の帷幄上奏にあたっては大御心のご判断を仰ぎ、
いかようにも身を処す所存でした。
その場でハラを切れと申されるなら覚悟は出来ておりました。
しかし上奏は叶いませんでした。
奉勅命令で本来の大御心が曇りました 」

「 貴様、陛下がどれだけご軫念あそばれたか、考えたことがあるのか 」

「 決して天皇陛下に弓を引くことを企図した訳ではありません。
ただ君側の奸を取り除き天皇を戴き維新を達成する。
君主親政のお立場から帝国の窮状を御一新願う。
それが主眼でありました。
しかしこのことは詳しくは軍事法廷で申し上げることが叶いませんでした。
残念なことです 」

「 陛下は蹶起の朝から暴徒と貴様らをお呼びだったと洩れ伺う 」

「 暴徒 ?  暴徒とは、あんまりです ! 」
中橋の表情がこわばる。声が大きくなった。
「 しかし、大佐、おかしいではないですか ? 
当日深夜に出された戒厳令では、
蹶起部隊が戒厳部隊に編入を命ぜられたではないですか ? 
戒厳令は大元帥陛下のご命令ではなかったのですか ? 
それがなぜ暴徒と・・・・」

「 それはあくまで一時の方便にすぎない。
興奮している蹶起軍を鎮静化するための謀略とも云える。
陛下のご意志は戒厳令による蹶起軍の鎮圧にあった 」

中橋基明の表情が蒼白になる。
右手の拳が強く握りしめられた。
「 では我々はいったいなんのために ! 
乏しい国内資源だけでは成り立って行かない皇国。
それが満蒙に活路を見出し対外進出を果たすためには、
兵士の供給源たる農村に後顧の憂いがあってはならない。
そのために国内改革をめざしたのです。
直接行動が非合法であることは論をまちません。
もとより自刃は覚悟の上です。
しかしそれ以外に農村の疲弊を解決する方途がありましょうか ? 
腐敗した議会政治にいったいなにができるのですか ? 
それを暴徒とは・・・・」

「 貴様、政治のことは軍人が関わるべき領域ではない。
ともかく蹶起は陛下の大御心に添わなかった。
五・一五事件とは違って、恩赦をお赦しにならなかったのも陛下だ 」

「 大佐、それでは我々は犬死ではありませんか? 
蹶起の本義はまったく天聴に達していないではありませんか ! 
いったいなんのための蹶起・・・・」
中橋の整った切れ長の目元から涙が流れる。
とどめなく頬を伝った。
和服の獄衣に滴り落ち、喉元はびしょびしょに濡れる。

井上が慌てた。
少しいいすぎたかと反省する。
ハンカチを軍服の懐から取り出して渡そうとした。
だが中橋はそれを手で遮り、うな垂れて面会室を後にする。
「 中橋、明日は静かに行け ! 」
井上大佐の声が背中に飛ぶ。
・・・・

万民に
一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が
我々を暴徒と退けられた。
君側の奸を討つことで大御心に副う国内改革を断行する。
これらを大義とした蹶起が、なんと陛下ご自身から拒絶を受ける。
一命を賭した直接行動は、単に大元帥陛下に弓を引くだけに終わったのか。
オレの蹶起行動になんの意味があったのか。

まるで浅草の小屋の安っぽい喜劇にすぎないではないか。
中橋は心のなかで繰り返し反問する。
必死にもがく。
だが出口がない。
大御心
と 蹶起精神との絶対的乖離
を 事もあろうに
中橋は処刑の直前に知らされたのだった。

 

昭和一一年七月一二日(日)早朝 死刑が執行される

中橋基明中尉のみは
一発、二発で落命せず、三発目にして落命した、
全身血達磨であったと謂う

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・・・挿入・・・
笑ひ声もきこえる。
その声たるや誠にいん惨である。
悪鬼がゲラゲラと笑う声にも比較できぬ声だ。
澄み切った非常なる怒りと恨みと憤激とから来る涙のはての笑声だ。
カラカラしたちっともウルオイのない澄み切った笑声だ。
うれしくてたまらぬ時の涙よりもっともっとひどい、形容の出来ぬ悲しみの極の笑だ
・・・・磯部浅一 「 獄中日記・昭和一一年八月一二日 」
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眼と耳を塞がれた奇妙な架空の空間にいるカラッポさ。
その隙間を打ち破るように突然、中橋基明の口から大声でけたたましく笑いはじめた。
「いっひっひ、いひひ・・・・おっほっほ、おほほほほ・・・ワッハッハ、ハハハ・・・・」
同時に身体が力任せに激しく前後に揺さぶられる。
顔のない白い亡霊の鬼気迫る笑いだった。
射撃指揮官はまったく虚を衝かれる。狼狽した。
歩五七聯隊中隊長、山之口甫大尉(32)が慌てて白手袋の手を下す。
まごついた正射手がターゲットに銃弾を浴びせるが呼吸を乱され手元が狂う。
白い亡霊が一瞬にして真赤な鮮血で包まれるが致命傷には至らない。
さらに二発目が副射手から飛ぶ。
これも平常心を乱され心臓急所を外す。
白いターゲットは真っ赤に染まり、悲痛な声を挙げ、のたうつ。
そして正射手が必死の思いで三発目を放つと、巨大な赤いヒルに膨れ上がった。
断末魔に絶叫する。
この世のものとは思えない白日夢と云うべきか。
白ずくめの儀式は中橋の血ダルマで穢された。

鬼頭春樹 著 禁断 二・二六事件 から

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処刑後間もなく中隊内に幽霊騒ぎが起こった。
不寝番に立った誰かが見たとのことで、しかも毎晩出るというのである。
目撃者の話によると
夜中寝しずまった頃銃架のあたりを上半身の姿でさまよっているとのことであった。
そのため全員は恐怖に包まれ不寝番につく者がいなくなった。
週番士官も軍刀を抱いて寝る有様である。
これを聞いた田中中隊長は、
「 中橋中尉の亡霊かもしれぬ、中隊全員で成仏を祈ってやるのが一番だ 」
と いって
早速中隊長当番兵だった私が使約となって一ツ木町に出て線香と線香立てを買ってきた。
その日の夕方
全員が一堂に集合し線香をたてて中尉の冥福を祈ったところその日から幽霊は出なくなった。
おそらく中橋中尉にとっては中隊が何よりも恋しかったのであろう。
これは事件終了後のショッキングな事実としい忘れることができない思い出である。

高橋蔵相邸襲撃
近衛歩兵第三聯隊第七中隊 二等兵 松本芳雄 著
二・二六事件と郷土兵 から