《 斎藤内大臣 襲撃 》
私は当時第五班に所属し、初年兵教育の助手として毎日訓練にはげんでいた。
二月二十六日、
多分零時頃だったと思う、
就寝中いきなり窪川班長に起された。
「 すぐ軽機を組み立ててくれ、それから一装用の軍服を着用するのだ 」
私はかねてから渡満の話を聞いていたので、
愈々出動命令が下ったのかなと思いながら 云われるとおりに従った。
軽機は普通訓練用の銃身を装備して演習に使用していたが、
今から実戦用の銃身と交換せよというのである。
持ってきた銃身はグリスで格納されているので、この油をふきとり スピンドルを塗って交換する手順となる。
私は手早くに作業を進め組立てを終わった。
三時頃になると非常呼集がかかった。
班内は あわただしさの中で全員が軍装を整え、持込まれた弾薬と食糧を受取ると そそくさと舎前に整列した。
やがて大隊副官の坂井中尉がきて命令をくだした。
「 只今より中隊の指揮は坂井が執る。
命令---命により これから昭和維新を断行する、よって国賊に対して天誅を加える。
合言葉、尊皇=討奸 」
私は はじめ何のことか判らなかったが、
多分帝都に暴動が起こったので鎮圧のために出動するのではないかと推考した。
しかし 昭和維新ということが何であるのか、説明がなかったのでなんのことか判らなかった。
もう一つ、中隊兵力が殆ど出動するのに中隊長矢野大尉の姿が見えず、
関係の薄い坂井中尉が指揮をとるのは変だが 鎮圧を急ぐため、このような応急手段をとったのかもしれぬ・・・
私は自分なりの解釈をしながら坂井中尉の訓示を聞いた。
( この時 末吉曹長、中島軍曹の二名はすでに逃亡していた )
ここで出動にあたっての編成が組まれ、
私はさきの軽機を携行して初年兵ばかり約一〇名を従え軽機分隊となり、その分隊長となった。
なお今後は将校と行動を共にするよう命令を受けた。
やがて三時三〇分
積雪の営庭を出発し粛々として乃木坂をくだっていった。
雪がまた降り出し あたりは白銀一色に覆われ、猫の子一匹見えず街並は静寂そのものであった。
約一時間も行進した頃 隊列はフト停止した。
場所は四ツ谷仲町附近である。
そして隊列が自動的に崩れ 予め示された警戒位置に向って一斉に散開した。
何と襲撃目標は斎藤内府邸であった。
散開したあとに残った兵力は概ね二〇名弱、これが襲撃班だ。
私もその中の一人、
将校は坂井中尉、高橋少尉 それに砲工学校から参加した安田少尉の三名、
麦屋少尉は警戒分隊への指示でまだ見えない。
五時
正門から襲撃開始、
数名が塀を乗り越えて中から門扉を開き、主力を邸内に誘導すると
約一〇名くらいの護衛警官があわてて仕度しているのに遭遇した。
これを忽ち包囲し、
「 静かにしろ、邸の周囲には二千名の軍隊が包囲しているのだ、抵抗は無駄だ!」
というと 警官は観念したように腰をおろし命令に従った。
だが この内数名だけはどこかへ逃走したようであった。
襲撃隊は当初二手に別れたが 急に一団となり建物の裏手から突入をはかった。
先づ 雨戸をこじあけようとしたがビクともしないので小銃の床尾鈑で叩きこわして内部に進入、
そこは女中部屋で女どもが物音に驚き震えているのが見えた。
そこへ書生らしい若い男が出てきて 「 何の用ですか 」 と いった。
「 斎藤内府に用事があってきた。部屋に案内してもらいたい 」
すると書生は素直に返事をして二階の寝室に案内した。
その後に坂井中尉、高橋少尉、安田少尉、林伍長、そして私の五名が続いた。
部屋の前までくると我々の足音に目をさました夫人が、
ソッと戸を開けたが我々の物々しい姿に驚き戸を閉めた。
しかし多勢の力には抗すべくもなく戸は難なく開かれた。
部屋の中には電灯がともり明るかった。
一歩部屋の中に踏み込むと夫人は我々の前に手をあげて立ち塞がり
「 待って下さい 」
と 叫び進入を拒んだ。
しかし我々は耳をかすこともなく夫人を払いのけ奥の寝室の戸を開けると、
そこに目指す斎藤内府が立っていた。
それを見た一団は一斉に近迫したとみるや
先づ安田少尉が
「 天誅国賊 」
と 叫び拳銃を発射した。
その距離僅か一米、弾丸は正確に心臓に命中、内府は二、三歩後退するような恰好で倒れた。
すると夫人が横から飛び出し 内府の身に馬乗りになって抱きかかえ、
「 殺すなら私を殺せ 」
と 半狂乱になって絶叫した。
夫人は渾身の力で内府をかばい、しっかりと抱きしめているので引離すことができない。
これ以上は銃弾を浴びないように防ぐ姿に一瞬たじろいだが
目的を達するため拳銃を差入れるようにして次々に発射、私も軽機で十五発発射した。
頃合いをみて 安田少尉が軍刀で止めを刺し 斎藤内府襲撃は終了した。
時に午前五時十五分である。
・
《 渡辺教育総監 襲撃 》
部隊は間もなく正門前に集結し 万歳を唱えたあと二手に別れた。
主力は坂井中尉、麦屋少尉の指揮で陸軍省へ、
私たち襲撃班は徒歩で赤坂離宮前に行き、そこからトラックで荻窪に向った。
目標は渡辺教育総監である。
午前七時頃
正門前に到着、そこは総監の私邸であった。
直ちに門を押しあけて邸内に進入、
襲撃は表と裏の両面から実施するため進入しながら二手に別れた。
私は表玄関組である。
早速屋内進入にかかったが玄関の戸締りが厳重で思うように開かない。
そのうち内部から拳銃を射ってきたので忽ち銃撃戦となった。
そこで私も軽機を腰だめにして拳銃音をめがけて連射した。
数分たった頃、 「 裏口があいている 」 という連絡がきたので全員裏口に廻り
安田少尉が先頭を切って屋内にはいった。
我々の襲撃を察知した総監はここから脱出しようとしたのではなかろうか。
安田少尉はツカツカと進んで部屋の戸をガラッとあけると、
そこに夫人が襖を背に、手を拡げて立っていた。
安田少尉が総監の部屋を尋ねるといきなり、
「 あなた方は何のためにきたのですか、用事があるのなら何故玄関から入らないのですか 」
と 大声をあげた。
夫人は勿論総監の居場所など答える筈はない。
しかしその様子で大体察しがついた。
その奥の部屋にいるらしい。
いや、いる筈である。
そこで高橋少尉が夫人を払いのけて襖を開放した。
すると布団の付近から突然拳銃を発射してきた。
正しく総監であった。
その部屋は八畳ぐらいの寝室で、
総監は布団をかぶりその隙間から拳銃を発射しているらしい。
ここでまた応戦の形で銃撃戦が行なわれたが、
相手が一人のために瞬く間に決着がつき
高橋少尉が布団の上から軍刀で止めを刺して引きあげた。
この襲撃も時間にすればせいぜい二十分位だったと思う。
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ここで一言したいのは夫人の態度であるが、
襲撃の間、横の方で放心したように立ったまま見ていたようで、
斎藤内府夫人の様に主人をかばうことはしなかった。
もうそのような気概が起こらぬほどショックを受けていたのかもしれない。
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襲撃を終わった私たちは再びトラックで都心に戻り、三宅坂附近の警備に入った。
その夜は現地で過ごし
翌二十七日は陸軍省、参謀本部に移り 他の部隊と合流して警備に当った。
この附近には外国公館が多くあるので行動にあたっては絶対に宅地内に入らぬよう細心の注意を払った。
当夜は料亭幸楽に移り仮眠をとった。
その頃から聯隊からの食事が止り空腹が徐々に身をさいなみ始めた。
事態が刻々変化するうち二十八日を迎えた。
私たちはなお籠城を続け 幟を立てて志気を鼓舞した。
玄関入口には民衆がつめかけ喊声をあげて内部に入ろうとしているが、
警官に阻止される状況が続いている。
民衆は我々に味方しているのであろうか。
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二十九日になると状況が急変し 将校、下士官の姿が見えず兵隊だけになった。
加えて鎮圧軍の戦車に包囲され 午後一時過ぎ遂に武装解除をうける羽目になった。
最早万策尽き鎮圧軍に降伏するの已むなきに至ったのである。
私たちはやがて丸腰にされ トラックに乗せられ、そのまま原隊に送りかえされた。
歩兵第三聯隊第一中隊 上等兵 中島与兵衛 『私は軽機射手だった』
二・二六事件と郷土兵 ( 1981 ) から