私は昭和十年一月十日現役兵として歩三機関銃隊に入隊し第五内務班に所属した。
班長は鳥羽徹雄軍曹、班付が荒木直太朗伍長であった。
翌十一年 二年兵になると私は初年兵掛助手として毎日訓練の指導に専念するようになった。
教育課程は順調に進み、
二月二十五日には趣向を変えて田園調布方面への行軍演習が実施された。
道路には雪が積っていて靴がすべり帰営した時は全員クタクタになって、
日夕点呼が終わるのを待ってベッドに入った。
すると睡眠中、多分二十六日午前二時半頃、不寝番にゆりおこされた。
「 非常呼集発令、一装用着用で舎前に集合!」
不寝番は次々に兵を起して行ったが不思議とラッパの鳴った気配はない。
仕度をしていると班内に実弾が持込まれ各自に支給がはじまった。
かねてからの計画であった渡満が急きょ始まったのかも知れぬ。
私はそう思いなから軍装して舎前に整列すると間もなく編成が下達され、
私は分隊長に任命され十二、三名の兵力を掌握すると同時に第一中隊に配属を命ぜられた。
この時同じ行動をとった兵力は四個分隊だったと思う。
第一中隊の指揮官は坂井中尉で申告後指揮下に入ったが、
この時中尉は次のようなことをいわれた。
「 唯今帝都は相澤事件の公判をめぐり暴動が起きようとしている。
よって我々はこれを鎮圧するために出動する 」
かくて四時過ぎ部隊は出発した。
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路上の残雪が凍り、踏みしめる靴はすべり神経のつかれる行進であった。
隊列は路地裏を縫うように進み、小一時間も過ぎた頃斎藤内府邸の前に到着。
同時に一斉に散開し私邸の周囲に布陣した。
私の分隊は私邸裏門に廻り、
第一中隊の軽機分隊と共に道路上に歩哨を立てて警備についた。
この時の歩哨に与えられた特別守則は、
1 道路の通行を遮断する。
2 命令に背く者は射殺する。
と いうもので 要は絶対通すなということであった。
すると何時頃だったか警官が二名やってきた。
両名とも棒を持っているのでおそらく警視庁の新撰組と思われる。
早速 「 通せ 」 「 通さぬ 」 の問答が始まった。
彼等は一刻も早く登庁を急いでいるので、漸次語気を荒くして威圧の態度を示してきた。
「 君たちは国家の軍人なら俺も国家の警官だ、
今非常呼集がかかったので早く行かねばならん、通さなければ強行突破するぞ 」
警官がそういって強引に通過しようとしたので、軽機分隊の軍曹が突然、
「 射撃準備、目標、目前の警官!」
と 号令した。
すると兵隊が一斉に安全装置をはずし銃口を警官に向けたので、彼等は急にタジタジとして、
遂には 「 帰ります 」 と 口早にいうと 逃げるように引返していった。
若しここで警官があくまで意志を貫徹しようとしたら間違いなく射殺されたであろう。
そのうち私邸の中から拳銃音が三発鳴った。
私はそこで初めてすべての事情を知った。
私たちがここにきたのは私邸の警備ではなく襲撃だったのである。
間もなく撤収が告げられ全員が表門に集った頃、邸内から坂井中尉らの襲撃班が出てきた。
坂井中尉は抜刀のままで、その剣先きには血がついていた。
そして一同を見渡し、
「 襲撃は成功した 」
と 叫んだ。
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襲撃後 部隊は駆け足で赤坂見附附近に移動し一斉に歩哨線を構え交通遮断を実施した。
このとき三宅坂に至る道路の封鎖が最重点となった。
すでに夜が明けはじめたが、
また雪になり 銀世界の中に点々と立哨する兵隊の姿だけが黒く浮かんでいる。
やがて陸軍の佐官級の人たちが勤務のために続々とやってきたが皆歩哨線で止められた。
連中は突然のことに驚きながらも 「 すぐ責任者を呼べ 」 と 息巻いた。
その頃 三宅坂附近には安藤部隊が展開していて、
蹶起部隊の兵力はこの青山通り一帯に集中していた。
そこで連絡を受けた安藤大尉がきて連中に返答した。
「 あなた方がどうしても通りたいなら お行きになっても構いません。
ただし 命の保証はいたしません 」
さすがにこの返答にはギクリとしたらしく、連中は今までの態度を崩し引返していった。
その日は 終日警備を続行し、その夜新国会議事堂に移り、
私の分隊は隣接する首相官舎に入って仮眠した。
官舎には人影がないので遠慮なく上りこみ、タバコやコーヒーを探し出し 皆で分け合って飲んだ。
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二十七日は警備態勢で過ごし、夕刻幸楽に行った。
ここは料亭で着物を着た大勢の女中さんに迎えられて部屋に入り、会席膳で夕食をとった。
どこかへ旅行しているような気持がした。
食後幹部から婦人には手を出してはいけないとの指示があった。
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二十八日
私の分隊は首相官舎で待機した。
その間 演芸会を開催したことを憶えている。
その頃 事態は奉勅命令が下り、蹶起部隊にとって不利な状況を迎えていたのであるが、
私たち兵隊は何も知らず、上官からの命令を待つだけに過ぎなかった。
しかし外部の兵力が刻々増加するのを見て険悪な空気が漂いはじめたのは事実で、
ここにおいて覚悟を決め、私は遺書を書きいつでも投函できるようにポケットに収めた。
その日は 終日緊張しながら官舎ですごした。
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二十九日、
朝から外部が騒々しくなり 戦車が目の前を往復しはじめた。
私たちは戦闘に備えて射撃命令の下るのを待った。
戦車が盛んに放送しながらビラを撒いている。
そこでそっと表に出て数枚を拾ってきて皆で読んだところ忽ち愕然たる衝撃をうけた。
事もあろうに私たちはいつの間にか叛乱軍になっていて、
早く原隊に帰らなければ逆賊とみなし討伐するという大変なことが書いてあった。
この時の驚きは今も忘れない。
私たちは心の動揺を抑えながらなおも現場に踏みとどまっていると
九時頃集合がかかり、
そこで坂井中尉から現在までの状況説明と下士官兵の原隊復帰命令を受けた。
逆に目的完遂は成らず発布された勅命に従うことになったのである。
ここで坂井中尉ら将校全員は私たちと別れ、どこかへ去って行った。
残された下士官兵は後片付けをしてから迎えのトラックで原隊に帰った。
歩兵第三聯隊機関銃隊・伍長勤務上等兵 鈴木清 『歩哨線警戒中』
二・二六事件と郷土兵 から