あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

お前たちは一人一人が昭和維新の志士であるゾ!」

2019年08月04日 08時58分08秒 | 坂井部隊

私は昭和十一年一月十日、現役兵として歩三、機関銃隊へ入隊した。
当時の銃隊長は内堀次郎大尉、教官柳下良二中尉、
所属した第五班の班長が鳥羽徹雄軍曹、班付 荒木直太郎伍長であった。
入隊以来訓練と内務にあけくれ三週間後にはMGの操作方法を習得、
この他 大久保射場で小銃による実弾射撃を一回行うなど、
初年兵としてはかなり早いペースで訓練が進められた。
この間 私には隊外の様子は何も判らず、無我夢中で軍務に専心していたとみて過言ではなかった。

そうした二月二十六日、
多分 〇三・〇〇頃、突然非常呼集がかかった。
班長が一人一人をゆり動かし 「 起きろ!非常呼集だ、すぐ仕度せい 」 と 告げた。
電燈をつけて指示された軍装を整え、次いでMGの銃身を実包銃身に交換した。
間もなく実包が支給されると重ねて編成が下達された。
何とも目まぐるしい中に、準備が着々として進められて行く。
第五班では二個分隊が編成され 私は鳥羽分隊の二番 ( 弾薬装填 ) に指名された。
この時の分隊兵力は七名だったと思う。
通常の場合は馬がつくので長以下十一名なのだが、
今回は銃を四人で持つのと弾薬手が二名でそれだけ人数が省かれたのである。
因にMGの重量は六〇瓩きろぐらむである。
編成と準備が完了すると
第五班の二個分隊は第一中隊に配属され、申告をすませ坂井中尉の指揮下に入った。
我々は以後 第一中隊と行動を共にすることとなる。
坂井中尉は出動兵力を掌握すると力強い声で訓示を行った。
「 目下帝都は相澤事件の公判をめぐり暴動が起こらんとしている。
よって我が部隊はこれを鎮圧するため唯今より出動する 」
かくして 〇四・三〇 出発となった。
夜目にも白い残雪を踏みしめながら部隊は粛々として出て行った。
その時 営門の所に柳下教官が我々を見送っている姿があった。


私の分隊は部隊の最後尾を進んだ。
青山通り--明治記念館--信濃町駅を通過して進んで行く。
その日の明け方の寒気はかなりきびしいものだったと思うし、
MGを持つ腕も重量にこたえた筈だが、
出動という緊張した目的のためか全く感じなかった。
携行した実包は二箱 ( 一箱九連入り ) で 五四〇発である。
やがて大きな屋敷の前にくると隊列がサッと散り 屋敷を包囲した。
これは斎藤内府邸である。

MGの方は荒木分隊が裏手に、
私の鳥羽分隊は表門にそれぞれ銃を据えて屋敷の警固にあたった。
私は実弾の封を切って装填をおわると そこへ坂井中尉がきて、
「 銃の方向が違う!銃口は玄関に向けるのだ 」
と いった。
私は驚いた。
屋敷を警固するのではなく襲撃すると聞いて唖然とした。
一体何をしようとするのか、その時になっても私は何も知らなかったのである。
近くでその様子を見ていた表門警備の警官があわててどこかへ逃げていった。
坂井中尉はやがてLGを含む一個分隊を指揮し、鉄の門扉を押しあけて邸内に進入し裏手に廻っていった。
間もなく LGの音が鳴り出した。
我々は状況如何と緊張しながら様子を見守っていると、
約十分ぐらいたって襲撃班が引上げてきた。
先頭に立つ坂井中尉の手には拳銃が握られ手や軍服には血痕がついていた。
坂井中尉は全員に向って、
「 成功!成功!昭和の逆賊 斎藤実の血を見ろ!
この血で日本は今まで暗くされていたのだ。
お前たちは一人一人が昭和維新の志士であるゾ!」

と 拳銃を持つ腕を高くさしあげて大声で叫んだ。

その後部隊は隊形を整えて赤坂離宮の前まで行進した時、そこにトラックが待っていた。
ここで一中隊の兵力約六〇名が乗車し 渡辺教育総監の襲撃に向った。
私の方は そのまま三宅坂の陸軍参謀本部前附近に至り歩哨線を構えた。
これは交通遮断が目的で我々蹶起部隊の都心部の占領をも意味した。
その夜は現地で露営した。
連日寒い日が続いたが、聯隊からの暖かい飯や外套が届けられたので寒さを防ぐことができた。

翌二十七日午後 幸楽に移る。
幸楽というのは料亭で、我々がここに移ってからも炊出しをしてくれたので空腹の心配はなかった。
唯 毎日が緊張と警備の連続でやたらに眠かった。
その日坂井中尉から話があり、
「 秩父宮殿下も我々の行動を理解しておられ、今頃は状況して陛下にお会いしている筈、
その上奏において真崎大将に組閣の大命が下ることになっているので、
それまで徹底的に抗戦しなければならない 」
と いう朗報を承った。

しかし二十八日になってもそれらしい様子が見えず、
夜になると戦車が出動してきて幸楽の建物を包囲するに至った。
話によると軍艦が東京湾に入泊し、艦砲を議事堂の尖端に標定して射撃準備を完了したとか。
事態は容易ならざる方向に傾きつつあることを認知した。
その日に 奉勅命令が下ったのであるが我々は全くしらず、
坂井中尉はそれを知っているのかどうか不明だが、
急に意を決して
「 部隊は唯今より 包囲網を突破して血路をひらき、二重橋前に至り、そこで全員自決する 」
と 告げた。

しかし結局は実現せず私たちは警視庁前にMGをすえたに止まった。
その頃になると鎮圧軍は益々兵力を増強し、我々を完全に包囲し、刻々攻撃に移る構えを示してきた。
私はその様子を眺め 暗い気持ちにとざされた。
入隊以来僅か四十日、ひたすら命令によって動くことしか知らなかった私であったが、
何の為に 二重橋前で自決せねばならぬのか納得できなかった。
緊張の一夜があけた。
その年は閏年で二十九日であった。
よるが白々と明るい頃、遠くの方からスピーカーの声が風に乗って聞えてきた。
更に 〇八・〇〇頃になると飛行機が飛んできてビラを撒き散らした。
『 兵に告ぐ 』・・・『 兵に告ぐ 』・・・
拾ったビラには下士官兵の帰隊勧告がうたわれていた。
しかも我々はいつの間にか反乱軍の汚名を着せられていて
親兄弟が泣いているとの悲しむべきことまで明示されていた。
我々は思わずギクリとして もう一度読み直してみた。
何たることか、我々は尊皇義軍であった筈である。
それが僅か一両日の間に急転反乱軍に落込むとは 一体どうしたことなのか・・・。
忽ち兵隊の間に動揺がおこった。

一〇・〇〇頃 集合がかかり全員は陸相官邸前に整列した。
やがて、やつれた顔をした坂井中尉がきて徐ろに訓示をした。
「 出動以来 皆よくやってくれた。
昭和維新は残念ながら挫折の止むなきに至った。
唯今をもって状況を中止し、
お前たちは原隊へ帰れ、今まで命令を守ってよくやってくれた 」

暫らくして戦車が入ってきた。
«撃つな» と 書いた幕が張りめぐらしてある。
続いて佐倉五十七聯隊の一個大隊が鉄帽をかぶり防弾チョッキを着て威風堂々行進してきて、
我々はその場で屈辱的な武装解除を受け差廻しのトラックで原隊に帰った。

あの二十八日の日、
坂井中尉から宮城前で自決するといわれた時、
私は何故自決しなければならないのか釈然とせず、幾分迷った感があった。
もしあの時 坂井中尉か又は側近にいた幹部から、昭和維新の目的や断行の進め方、
或は 国家の現状といったものを多少なりともうかがっていたら、
坂井部隊としての団結は更に強固となり、
蹶起の失敗によって宮城前で自決することに何の抵抗もなかったのではあるまいか。
また 蹶起における手段及び方法において種々間違った点もあると思うが、
真に国を憂い
陣頭に立って昭和維新を断行した坂井中尉ほか青年将校たちの心情は
まことに立派であった。

歩兵第三聯隊機関銃隊・二等兵 吉沢周作  『銃口は屋内に向けろ』
二・二六事件と郷土兵 ( 1981 ) から