あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 私も聯れて行って下さいと願ふ 」

2019年08月06日 10時14分26秒 | 坂井部隊

二月二十五日の中隊内の情況----命令下達から出発まで
(二月二十五日午後十時--二十六日午前四時)

雲上りの寒空、二月二十五日、まだ営庭には残雪が木々草々を埋め荒々しく残る。
朔風
(サクフウが梢を打つて凍りつくように、星の光も透き通つて青光に輝いている。
点呼の終った兵舎は消燈の準備も早く就寝の号音によつて一斉に寝台上の人となり
一日の心労を癒す。
時に暗い外の寒風も止まず戸の隙間より入りたる風が冷く足をひやし、上衣を脱いで
寝につくと丸伍長が下士官全員将校室に集合の命令を達した。
起出てみると何となく異様な胸騒ぎがした。
静かな兵舎内は気味の悪い台風襲来前の静けさの如く感ぜられた。
静かな隊内に今にも爆発が起るような雰囲気に包まれ、そしてこの静かさの中に深く
引込まれるような、ふわりふわりとして心が落付かず、かつて覚えたことのない感じだつた。

時計の針が午後十時を指した時、中隊命令簿並に班長手簿を持つて階下におりる。
我々に或は兵に対して平日の行動或は他日の演習のことならんかと集合す。
末吉曹長、中島軍曹、自分、内田伍長、梶間伍長、林伍長、高岡伍長、丸伍長
ドヤドヤと入る。
こちら向きに坂井中尉、麦屋少尉が居た。
坂井中尉が平日に似合ぬ謹み深い眼で緊張した表情で、下士官全員を見守りながら
人員を点検しているようだつた。
机の上には地図や雑本が雑においてあつた。
麦屋少尉も口をしめて軍刀を腰に佩(ハイ)していた。
普段は下士官が将校の前に行った時は、古参者の 「 敬礼 」 の号令で敬礼し、
終わるとすぐ用件の口舌を切るのだが、今夜に限って仲々用件を達しない。
拳銃なども本立ての蔭にあるのが目に付く。
之は只事ではないなあと思っていると
坂井中尉が、底力のある声で命令のような 亦 同意を求めるような口調で話出した。
「愈々 かねてより計画してあつた昭和維新に向って在京部隊が
一斉に立つて邁進することになつた。
歩一の主力、歩三の全部、近歩三の大部分等が先づ決行した後、他の部隊もゾクゾク
之に参加する予定である。
歩三は週番指令の命令により第一中隊は俺が指揮して之に参加する。
第一中隊の襲撃場所は斎藤内大臣邸である。
なほ 続いて第二次も計画されている」
と述べた。
すると両将校の態度が硬化し何とも表情し難い面構えに変った。
その語句の間に、
我々皇軍がこの時に立たなかつたならば帝国はどうなるかはすでに明らかで、
我々の言を待たない処である。
懼れ多くも陛下の囲りを悪い重臣が取巻き、陛下の御陵威を下万民に分かち恵み下すことが
出来ず、之を幸に重臣官僚軍閥財閥等がその袖にかくれて私慾に走り
己が栄華をほしいままにし--(中略)」
中尉は語句を切り思ひついたように 第二中隊の下士官を呼べといつた。
末吉曹長が渡辺曹長を、梶間伍長が長瀬伍長、青木軍曹、北島伍長を呼びに行く。
数分にして渡辺、青木、長瀬の三名が来た、末吉曹長も戻った。
寒さは厳しく全身の身震いは仲々腹に力を入れた位いでは止みそうもない。
その内 坂井中尉が三名に対し同様の話を述べたあと
渡辺曹長に 「 ヤレルカ、ヤレルカ 」 と二回程念を押す。
曹長当惑していたらしいが嫌だとも言へずか、「 ヤレマス 」 と答へた。
之に力を得た中尉は、
地図、雑記帳を出し、下士官を円陣にして各人の担任部署を示された。
次いで大臣邸の地形図、経路を示し、分隊ごとの任務を下達、細部は後刻達するとして打切り、
明朝非常呼集を行ふまでゆつくり休めと言はれ 一同退出した。

俺と丸伍長が話をしていたら 新軍曹が来た。
「 どうだ、行くんだがどうしよう 」
「 何も心配はない、将校の言ふ通り動作すれば間違いなしよ、
もし 間違つたら将校が腹を切りやそれで情況おわりなんだ 」 などと話合い俺は寝た。
丸 と 新 軍曹は泡盛をチビリチビリと飲んでいたが心配している。
俺は別に気にもかけずに寝てしまつた。

午後十一時頃、高橋少尉が下士官室に来て
「 オイ 起きろ、オイ起きろ 」 と揺り起こしたので起出ると、寒い風が身に沁みる。
静かな夜だ、暗い中を不寝番の足音がコツコツと聞こへるのみだ。
下士官全員将校室に行く。
第二中隊からも蛭田などが来た。
最細部について指示が出された。
私は赤坂離宮の北側三叉路上でMG一ケ分隊とLG一ケ分隊をもつて警戒する任務を受けた。
末吉曹長、中島軍曹、新軍曹、内田、梶間、木部、林、丸、高岡の各伍長もそれぞれ任務を与へられた。
突進隊し林伍長の組だ、
物凄い程用意周到至れり尽せりの計画で全身に武者振るいが波を打ち恥かしいくらいだ。
この時、坂井、高橋、麦屋の将校の他に見知らぬ砲兵少尉が一人居て 坂井中尉の紹介で、
高橋少尉と同期の市川野重七聯隊の安田優少尉なるを知る。
我々と心を同じうして国家の為に奉公する方だと言った。
最後に邸に行くまでの道路を地図で見る。
何しろ事が大きいので武者振るいが本心からで止めようと思っても止らない。
人前があるので内務班に帰る。
先づ 二年兵を起してLGの組立てを命じた。
またすぐ将校室に行く。
邸の内外概略の地形を図によつて当時記憶していた処だけを記す。

LGの実包銃身の交換は中島上等兵、福島一等兵、宇田川一等兵の三人が全部を行った。
下士官全員への指示が終わつたので、それぞれ下士官室に帰った。
下士官一同もあまりのことで話するにも力なく不安の内にお互ひに元気付けていた。
時刻は午前二時だ、寒さは更に厳しくなつてきた。
新軍曹は聯隊全部の弾薬分配、中島軍曹は中隊の弾薬受領、丸伍長は糧秣を、
私達は班内に至り非常呼集で全員を起こす。
兵隊は早くも起きて準備する。
第二装被服着用、軍装して背嚢を除く、
LG何コ分隊を編成すべきか知らぬので高橋少尉に聞くと、八コ分隊を編成し内、真銃分隊を
四分隊他は第一弾薬手より以下の分隊を四分隊作るよう達せられた。
中隊は私と丸、林、高岡の四人が分隊長で軍装、編成を一時間後に完了した。

出発命令がなかなか出ず時間があるので兵隊を寝台上に休ませると
満洲へでも行くのだらうかなどと言ふ者も居た。
若し弾を撃つ時は危害防止に注意するよう指示する。
私も拳銃と弾薬十八発を受領し軍装する。
中島軍曹は早くから準備が終わつていた。
兵隊を一人一人検査しなければならぬ。
忙しい、糧秣が分配になる、二食分位だ、雑嚢の中に入れて待機の姿勢に入る、
時間があつても兵隊には出動のことを話 するなと言はれたので
一言もいわないが兵隊は既に知っている感じだ。
時間が四時に近くなつた。
でも中島軍曹が来ない。
弾薬の配給は如何なるのか、気になつて将校室に行ったが解らず、
玄関に行くと弾薬箱が八個あつた。
早速将校に伝へるとすぐ分配せよと言はれたので
LG弾だけを待つて班内に来てLG一コ分隊に対し三六〇発宛分配する。
心が落着かず早くは行かぬものだ。
数の間違いもあるだろう、舎前に出てからといつて全員舎前に出す。
兵隊は雪崩のように玄関前に出た。
もうその頃MGの鳥羽軍装が四コ分隊程指揮して来ていた。

中隊全員舎前に集合す。
正に午前四時なり。
寒天、星も凍りて光冴ゆ。
編成は第一、第二小隊にして第一小隊長高橋少尉、第二小隊長麦屋少尉、
分隊数はLG四コ分隊、小銃八コ分隊、これを二コ小隊に分けた。
私は第一小隊第五分隊長になつた。
坂井中尉が二段高い処から叫んだ
「吾々全員は今 天皇陛下の為に一身を捧げているが、
目下非常時に直面し世論は真実を知らぬ。
実に寒心に堪え時である。
此の秋にあたり 畏多くも天皇陛下の御陵威を遮り奉る妖雲を打払ひ
大御心を安じ奉ることが、皇軍吾々の本来の務めである。
真の日本国に立ち還らしむるものである。
お前達の教官が二人も行くのだから安心して将校の言ふ通り働いてもらいたい」
等の言葉を以て兵隊に知らしめた。
そして行動間特に合言葉を定め同志の危害を防ぐため
「尊皇・討奸」 三銭切手を持つ者は誰でも通すよう指示された。
準備完了、その時松吉曹長と中島軍曹の姿が見えなくなつていたのに気がつく。
坂井中尉に聞くと両名は先に現地偵察に行ったとのこと、
心外に思ひ高橋少尉にも聞くと同様のことだつた。
そのため別に気にもとめず 中隊長の号令で第一小隊を先頭にMG小隊、第二小隊の順序で出発する。
全員で二百名位いだと思った。

凍りついた道路を踏みしめ歩調も乱れ勝ち、他の中隊も夫々表門を通過、
靴音が寒空に響き良く聞えてくる。
表門には衛兵所の兵と週番副官が見送りに出ているので 之は本当だと思った。
電車通りを直進し青山一丁目より権田原を経て信濃町へ、兵隊も各班長も中々元気だ。
将校の命令なんだ、しかし満洲行を目前に控へて何分安心の気分もあつたが、
これが最後のタバコなどと話しながら駅まできた。
駅から少し行つた処の小路を右折、アスファルト道だが三列でないと通れない。
その上残雪が凍りついて出たり入ったり歩くのに骨が折れる。
腰を落して歩かぬと滑る。心配しいしい行く。
坂だ、町家はまだ早いので何処の家も起きていない。
LGに三脚架をつけてきたので思い。
道が狭くて右へ行ったり左に来たり様々な苦心だ。
聯隊から約四十分位いで到着した。


裏の石垣の下へ歩哨を立てて行けとのことで、内田伍長担任の場所なので渡辺曹長の
指揮で行動するよう計画通り締めた。
吾々の場所はもつと前方なので続いて行進した。
丸伍長が位置につく、鳥羽MG分隊長がつく。
暗い屋敷町の路に靴音だけが薄気味悪く響いて、部隊が大臣邸の前に停止した時は
一言の私語さへも漏れない。
静かの内に 高橋少尉が底力のある声で 「 位置につけ 」 と 命じた。
「 ハイツ 」 返事と共に各部隊が示された場所に駈足で向かった。
途中地形概要も不注意のうちに橋を渡り大きな道の三叉路に出た。
役百米程入ってすぐLGに弾を込め、道路の南側に据へて警戒に入る。
通行者は一切阻止せよとのことで 万遺漏なきよう前方に歩哨一名を出す。
MG、LGが共同作戦出来るよう手順を定める。
出発時分隊長以上に射撃してはならぬと言はれているのだ、分隊長の命に随はない時は
直ちに殺しても良いとのことだつた。
明るい 「 ライト 」 が 猛スピードで来た。
歩哨に立つた兵隊が大声で 「 止れ 」 と二声叫んだところ停止した。
上野駅に急行する者だとのこと、一時停止せしめて置こうと思ったが可哀相なので通す。

そのうちに ドド・・・・・ッと連続音が北の邸の方から聞えて来た。
LGの銃声だ、激しい音だ。
相当やつているなと思っていると巡察が三名程巡警に来た。
歩哨の 「 止れ 」 の声にて 「 何ですか 」 と言ふので演習だよと言ふと
尚も行かんとするから今三十分待つてくれ、その内に用が終わるからと言つて帰す。
離宮の北側警備巡査かと思ふ。
また 東の方から二名来た。
MGの上等兵が追ひ返してしまつた。
分隊長始め兵隊まで本調子になつて来た。
良き敵御座なれと腕まくりして待つていると演習止めラツパが一声二声鳴り、
坂井中尉を先頭に高橋少尉、麦屋少尉、安田少尉が元気に兵を連れて来た。
成功、成功の声も高々に上々の首尾だつたと笑ひ顔で、
腥い血糊の拳銃を持つ手と軍服の袖まで染めて来たのが今でも目に浮かぶ。
夜は未だ明けやらずに淡い闇の膜に包まれて、近くにして人の顔も知れる位い、風も止み
寒さは一段と厳しく星の光も雲に覆われて来た。
部隊が赤坂離宮の処に四列縦隊になり私の分隊が最後尾のため 後方警戒の役目になる。
この場所で天皇陛下万歳を三唱し十五分程度休憩する。
私は部下を連れて小隊長の許に行くと、
高橋少尉、は忙しそうに亦改めて小隊を編成し二列に並列させた。
「教官殿、何処へ行くのですか」 と問ふと
「第二次渡辺教育総監を襲撃に行くのだ」 と元気で緊張し切った口調で言った。
私も連れて行って下さいと願ふと、もう編成が終わつたから駄目だと言ふので、
でも と言ふと 兵隊までが今度は自分達の番だからと言ひ 何回も教官に願ったが駄目だつた。
吾々は遠い処で警戒だけだつたので今度は一つ手柄を立てようと思ってのことなのだが、
丁度この時貨物軍用自動車が三台程来た。
之は市川の野重の自動車だ。
高橋少尉、蛭田、長瀬、梶間、木部等二十人程が自動車に分乗して行く。

俺達は坂井中尉の許に行き先頭に立ちて平河町に向って行進する。
小原軍曹が路上斥候長で行ったのが今も目に映る。
濠の柳も枯れて水面が青白く、電車通りも人一人通らぬ上を警戒を厳しくして、
山王通りに出てお濠の坂を登り平河町の五叉路上に停止する。
私とMG荒木伍長、の二人が警戒につくことになつた。
LG一コ分隊MG一ケ分隊IG半コ分隊を以てこの道路上を何人も通さぬことにした。

軍人たりとも一歩も入れまじ、若し命に従はぬ時は直に射殺すべしと。
午前七時頃から軍人、一般市民の通勤者、乗合自動車、電車とも全部通行止めとし
上司の命を伝へ帰す。
朝明けと共に天候も大分険悪になって来た。
道路上に居る時に雪がチラリチラリと降って来た。
寒さも大分度を増して来たが、何しろ防寒は箱をこわして燃やしているだけだ。
でも人員が多いので交代交代であたたまつた。
通行人達は物珍しげに立止まって見ている。
乗合自動車は折返し折返し運転しているようだ。
タクシーが兵隊に気合ひをかけられ追返されるように戻って行く。
雪も本降りになつて来た。
一時降っては亦小止みになつてはいるが、もう並木は白く花でも咲いていたようだ。
非常呼集で警視庁に向ふ警官も多数来たが他を廻って行かせた。
サイドカーで憲兵の少佐と特務曹長を乗せ上等兵が運転して来たので、
兵隊が 「 止れ 」 で止める。
「 ここは一切 通しません 」 と告げると、
俺は斯々の者であるが中隊長を呼んでこいと言ふので問答していると、
恰度好い時に坂井中尉が巡察に来た。
「 本日は此処は通すことはできませんから 」 と言ふ。
「 我々は任務の為に行くのであるから通してくれ 」 と中々激しく口論していた。
兵隊も銃を構へていた。
憲兵も拳銃を構へている。
寸刻の差で行きづまつた状態になつた。
坂井中尉が 
「 あなた方は左様言はれるるが私達もこのように準備がしてあります。
何時でも御見舞
ひ申しますから一つ撃って見ませうか 」
と側に居る野々山二等兵に撃つて見よと命じた。
すると 初年兵さん好機来たりと何も考へず地上に向けて一発ブッ放した。
コンクリの道を少し傷つけ跳弾は石垣にあたり石を砕いて白く残し行方不明になつた。
ビューン の一声を残したまま別に人畜には危害はなかつた。
之に驚いた彼は
「 まさか 」 と思っていた処 実弾を撃ち、また LG、MGに実包が装填してあるのを見て
早速将校さんは方向変換して帰って行った。
吾々一同 流石 坂井中尉だ などと思ったが?
・・次頁 「 皆御苦労だつた、御機嫌よう 」 に 続く

雪未だ降りやまず
(続二・二六事件と郷土兵)
元歩兵第三聯隊第一中隊付軍曹 窪川保雄 筆
二・二六事件の記 から
(註・・・原文はカナ書きの文、読み易くするためひらがなとした