あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

池田俊彦少尉 「 私も參加します 」

2019年01月20日 05時00分54秒 | 池田俊彦


池田俊彦少尉
昭和十一年二月二十三日の朝まだき、
近年未曾有の大雪は帝都を純白に染めていた。
それは 歩兵第一聯隊の営庭の上にも深々と降り積っていた。
三日後に起る世紀のドラマを秘めて雪は霏々(ヒヒ)と降り続いた。
起床ラッパが鳴った。
私は将校機銃室の布団の中で日曜日の朝の睡眠をゆっくりとっていた。
起き出して窓を開けると外は一面の銀世界であった。

同期生の林八郎少尉が蹶起のことを告げに来たのはこの時である。
林少尉は週番肩章をかけて 私の前にどっかり腰をおろすと、
昨夜 赤松大尉が来た時のことを話した。
赤松貞雄大尉は私達が見習士官の頃迄、
聯隊の中隊長をしていた陸士三十四期の俊才で、当時教育総監部の参謀であった。
赤松大尉は将校居住室の食堂に若い将校を集めて、陸軍部内の情況を話した。
そして昭和維新は是非やらねばならないが、今は尊皇討幕の時期ではなく、
公武合体の時だと話したそうである。
明治維新の際、先覚者によって尊皇の精神が培われ、
幕末の西欧勢力の東漸と東洋侵略の情勢の下、王政復古を目指す尊皇討幕運動が起こったが、
光明天皇をいただく朝廷及び幕府並びに一部雄藩に、これと対抗して構想されたのが
公武合体論であった。
これは既成勢力の体制立て直しともいうべく、
やがてそれら勢力の対立によって短時日で崩壊したものである。
これは急激な変化を好まぬ上層階級が、下級武士の革命的動きを一掃して、
現体制のまま時局を収拾しようとした既成勢力の妥協の産物であった。
いまは公武合体の時だと言っても、
我々はそこに昭和維新の終局の目的を見出すことは出来なかった。

青年将校の運動は、
既に三月事件や十月事件を経て、軍中央主導の運動に愛想をつかし、
自らの力を結集して既成勢力と妥協しない新しい運動を展開していたのである。
このような考え方は全国の軍隊内に浸透していたし、軍中央部にも理解を示す人は多かった。
しかし赤松大尉は歩一の情勢を憂えて、
今の時期に直接行動のようなことは絶対に避けるべきだと言いに来たに違いない。
だが、林はこの時既に心を決めていたのだ。

雪のせいか 物音のしない日曜日の朝、
私は林と膝を交えて語り合った。
林はいつもの口癖のように 「 我々は国内線をやるのだ 」 と 言い、
どうしてもやらなければ駄目だ、と言い切っていた。
そして近く在京の同志は立ち上がるという話をした。
私は五・一五事件のようなことをもう一度やっても、花火線香で終ってしまうから、
やるなら全軍一致して立ち上がらなければ出来ない。
同じことを何度繰り返しても、結局は強い力で押えつけられるばかりで、
かえって事態は悪くなるだけではないか。
やる時は一挙に死命を制する力を以てやらなければ出来ないと思うと言った。
林は今度やるのは五・一五などとは全然違う。
大部隊を以てやるのだ。
いま参謀本部や陸軍省の軍中央部に我々と一体となって維新を推進する人々がいる。
我々が立てば必ず全軍蹶起する端緒を作ることになる。
我々が維新の突破口を作り、
全軍をその渦中にひきずり込んで一挙に維新への道を開くのだと力説した。
私が部隊は何処から出るのかと聞くと、
歩一の機関銃隊と十一中隊、歩三はほとんど全部だ。
豊橋の教導学校からも来るし、近歩三の一部も参加すると言った。
私が、それなら出来るだろうと言うと、やる時期は今週中だ。
このことは伊藤(常男)には話していない。
貴様だけに話したのだ。
貴様がやるかやらぬかは貴様の勝手だが、我々同志以外の者に話したら貴様の命はもらうぞ、
と いって 林は私の眼をじっと見詰めた。
理想に燃える決死の眼差しと真剣な気魄に打たれて、私はしばらく無言であった。
やがて私は、わかった、それは約束する。俺もよく考えると言った。
林はそれからすぐ部屋を出て行った。
いままで漠然と予感めいたものはあったけれど、
ついにそれが現実にやってきたという重量感が ずしんと胸にのしかかってきた。

私は林のことを考えた。
林と私との心の結びつきは、書物を通じてであった。
陸軍士官学校予科のころから、私は宗教書、哲学書、日本精神に関する出版物などを愛読したが、
その中で安岡正篤の 「 王陽明の研究 」 は 私の心に一つの灯りをともしてくれたように思う。
この本によって私はさらに大塩中斎の 「 洗心洞箚記 」 を 読むにいたった。
それは本科の初め頃だったと思う。
これが林の眼にとまり、私の心の中にこんな所があったのかという驚きの眼をもって私を見、
それから色々と語り合うようになった。
国家改造の話もするようになった。
林は私に、貴様は企画心があるから良いと言い、
俺は今後十年かけて政治、経済などをみっちり勉強する。
それ迄は動かない。
貴様も勉強しろ、と私にもこの方面の勉強をするようにすすめた。
見習士官の当時、よく本を買ってきては読み 私にも貸してくれた。
小説なども読んだ。
中里介山の 「 大菩薩峠 」 なども次々と私に貸してくれた。
林は短身で剣道が強いので、当時、中隊にいた幹部候補生達から、
大菩薩峠の作中の人物である米友という綽名をつけられていた。
少尉に任官した頃 「 東亜先覚志士紀伝 」 を 読み、私に貸してくれた。
これは私に強烈な感銘を与えた。
日本の大陸政策の良い面はこの人達の崇高な精神にその源を発していると思った。
林はその頃、
今の時勢をよく見極めるのだと言って直接行動に出るような気配は全然なかった。
その林が十二月に機関銃隊に転属になり、栗原中尉に接するに及び、
栗原さんにすっかり共鳴してしまったのである。
それも私の感じでは一月に入ってからと思われる。
小藤聯隊長は私に、栗原中尉を歩一に帰したいきさつについて話してくれたことがある。
小藤大佐は歩一に来る前は、陸軍省の補任課長をしておられた。
その時、栗原中尉は千葉の戦車隊付であって、
戦車でも持ち出して暴れられては困るとのことで何処かの聯隊へ転出することになっていたが、
札付きの栗原中尉を受け入れてくれる聯隊がどこにもないことを知った。
そして、御自分がその出身の歩一の聯隊長で赴任することが内定していたので、
自分が引き受けようと同じ出身の歩一に帰したのである。
今にして思えば小藤聯隊長の善意が、
この事件にある種の角度を以て結びついて行ったように思われる。
小藤聯隊長は、おそらく栗原さんの抑え役として、林を機関銃隊へもっていったのだと思う。
その林がどういう訳か、栗原さんに共鳴してしまったのだ。
林は士官学校予科の頃、区隊長の松本中尉から
「 五尺の小身これ胆 」
と 称せられた同期生随一の豪傑で、
頭脳明晰であると共に 人を人とも思わぬ不遜な魂の持主であるが、
また一面、非常に純情で直情径行の男である。
この林が栗原中尉に同調したのだ。
栗原中尉は私にとって興味ある存在ではあったが、当面あまり魅力的ではなかった。
むしろあまりにも矯激な言動に反感さえ感じていた。
私も議論好きであったので、将校集会所で夜などよく栗原さんと議論した。
私は、革新は個々の軍人の行うべきものでなく、挙軍一体となって推進すべきものであり、
軍の強力な力によって腐敗した政党も、ユダヤ的な財閥も駆逐できるのではないかと主張した。
小藤聯隊長の前任の本間雅晴大佐も、曾て将校集会所に将校団全員を集めて、
何事も全軍一致して行うべきもので、軍隊内部の横断的弾圧を戒める訓話をされたが、
私もそのように考えていた。
これに対して、栗原さんの考えは根本的に違っていた。
栗原さんは、私のような考え方は、ファッシズムや、幕末当時の公武合体論につながっていくという。
それは革新を全体として考えて、大衆と一体となって強力に推進し、
革新への突破口をつくる栗原さんたちの行き方と違うというのだ。
自己自身を革新のために捨てることから新しい道が開けてくる。
またそこに活路もあるというのが栗原さんの考えだった。
栗原さんはまた、
現代の議会制度を痛烈にこきおろした。
「 今の議会は支配階級の民衆搾取のための手段と化している。
そこから新しい力は生れない。
第一、土地改革などは、地主達の多い支配階級が承認するはずがないし、
真の根本的改革は出来ない。
我々は力を以てこれを倒さなければならない。
いかにも多数決で事を決し、
国民の意志の上に国民の心を体して云っている政治のようであっても、
それは、結局権力者の徹底的利己主義となってしまっている。
起爆剤としての少数派による変革の先取りこそ、新しい歴史を創造することが出来るのだ。
このことは対話では為し遂げることは出来ない。
強力な武力的変革によってのみ為し得られるのだ。
我々はその尖兵である。
変革の運動は始まったばかりで、
最初から一定の理想像を期待出来るほど世の中は甘く出来てはいない。
新しい未来は闘争を通じてしか生まれない 」
と 論じた。
私は栗原さんの考え方は何回となく話しているうちに了解出来たけれど、
私には今すぐそれが出来る筈はないという考え方が根強かった。
林が栗原さんの考え方に全く同感したかどうかは分らない。
しかし一緒にやる決心をしたのだ。
林の考え方の転換点は、昭和九年の十一月二十日事件にあるように思う。
林は戦死された林聯隊長の二男で、
林聯隊長の部下で共に上海で戦った辻正信大尉が凱旋し士官学校に講演に来て以来、
辻大尉と親しくなり、辻大尉には敬服していたように思う。
しかし 十一月事件が辻大尉の謀略的行為によって摘発され、
親しくしていた同期生の荒川、次木、佐々木の三名が
投獄され退校させられたことに烈しい怒りを感じ、
それ以来、辻大尉とは疎遠になっていた。
そして栗原さんに会い、
磯部、村中の両氏の考えも知り、次第にこの方向に進んできたのだと思う。
ここに一言、十一月二十日事件に於いて触れなければならないと思う。
それは我々が士官学校本科二年生の時、
同期生の荒川、次木及び佐々木の三名と一年下の武藤候補生が革新の意欲に燃えて、
日曜外出の際、村中大尉、磯部一等主計、西田税などを訪ねていたが、
それを当時士官学校の中隊長をしていた辻正信大尉が察知して、
自分の訓育中隊の佐藤という候補生をスパイに使って内情を調査し、
クーデター計画があると判断して検挙した事件である。
この事件は調査の結果、
証拠となるべきものがなく不起訴となり、
村中大尉、磯部主計は停職、候補生は退校処分となった。
そして辻大尉も左遷されたのである。
村中さんや磯部さんは、時期が来れば蹶起しようという意志はあったし、
その計画も考えていたことと思う。
しかし考えていたことと実際の計画とは別である。
村中大尉や磯部主計が佐藤候補生に話した計画は、
スパイ佐藤の
「 将校がやらなければ候補生だけでやる 」
との 殺し文句にほだされて、なだめるための方便であったのだ。
これは、私が当時の次木君から聞いた話で判然としている。
辻大尉は事件後、候補生等に詫びたとの事実をもってしても、
この事件は全く事実無根だったのである。
林は私に辻大尉のやり方に憤懣の意を
洩らしていた。
このような過去を踏まえて林は栗原中尉の考え方に近づいていったように思われてならない。
栗原さんは同期生の一部の人々や、歩一のある将校から、
あれはダラ幹で、やるやると言って
ちっともやらないではないかと蔭口をたたかれていた。
また曾ての埼玉挺身隊事件では、
教え子の蹶起に自分は間に合わず、一時は助かったものの、
軍幕僚関係が近くこの事件をとり上げて軍から追放されるかも知れないとの噂もあった。
そして相沢中佐の捨身的行動、村中さん、磯部さんの動きと相まって、
どうしても一つの血路を切り開かなければならない絶体絶命の心境にあったと、私は考える。
 

第一師団の渡満は目前に迫っているし、今やらなければ永久に出来ないと考えたに違いない。
そして、この時に林八郎が自分の銃隊にやってきたのである。
いかに栗原さんが努力で銃隊の兵を動かそうとしても、
軍神林聯隊長を父に持つ豪快な林がいなければ、情勢はここまで進展しなかったかも知れない。
私は雪の降る営内居住室の中で、一人様々な思いに耽った。
これから行こうとする満洲の原野、
そして渡満を打ち消すこの蹶起、家のこと、上官のこと、部下のこと。
いくら考えてもやがて一大事が起ろうとする圧迫感だけが胸にこたえた。
私は先日、道路上で会った予科時代の区隊長である松山保喬大尉を訪ねて見ようと考えた。
近くお訪ねすると申し入れていた方である。
松山大尉は参謀本部第二部の参謀で、第二部は情報担当だからきっとこの方面の話も聞かれると考えた。
夕刻近くになって私は軍服に着替えて松山大尉を訪ねるべく営門を出た。
雪は烈しく降りつのり、市電は止まっていた。タクシーもたまに見かけるが空車は一つも無かった。
私は仕方なく歩きはじめた。雪が真正面から吹きつけて積雪は長靴を没し、歩行困難であった。
たとえ行きついても帰ることは出来ないと思った。
このとき天啓のようにひらめいた。これは行くないう何かの大きな力が働いているのではないか。
私は営内に引きかえした。
夕食の時もあまり人と話をしなかった。林とも会わなかった。
夜になって小藤聯隊長のことをしきりに思った。小藤聯隊長は元来歩一出身で、栗原さんにも理解ある方であった。
私は見習士官の時から、前の連隊長である本間大佐とは違った親しみを、この比較的寡黙な聯隊長に感じていた。
私が酒の上の過失をおかした時、きついお叱りを受けたが、その言葉の中に温かい人間性を感じていた。
私の欠点も美点も知っておられる連隊長と、私は時々お話する機会にめぐまれた。
小藤聯隊長は、現在進行中の相澤公判の判士であり、所謂、皇道派的立場から国家改造にも深い理解を持つ方であった。
私は、明日にでも聯隊長のお話をうかがいたい気持に駆られてきた。
私は蹶起のことを話すのでなく、軍中央部の考え方などを納得のゆく迄聞いてみたいと思った。
もしも、この時期にこうして経つことが悪い結果を将来するものならば、
私は一身を擲って、栗原さん達の行動を阻止しなければならないと考えた。
私は二月初めの竜土軒の会合の時の安藤大尉を思い出した。
相沢公判の報告をするから聞きに来るようにとのことで、私と林と伊藤も一緒に参会した。
公判の状況を話した後、何か不穏の空気が漂っていた。
安藤大尉はソファーの中に身を埋めるようにして頭を抱えこんでじっとしていたが、
起き上ると皆の方を向いて次のようにおごそかに言った。
「 青年将校は何時でも起つぞという気構えで、刀の柄に手を掛け、
何時でも抜く姿勢を崩してはいけない。
しかし 刀を抜いてはいけないのだ。
抜くぞ、抜くぞと構えて滅多に抜いてはいけない。
それなら絶対抜かないのかと言えば、抜く時が来れば抜く 」
そして間を置いて、
「 今は抜くべき時ではない 」
と 言った。
私にはその時の情景が頭に焼き付いていた。
しかしその安藤大尉が起ったのだ。
もう大勢は動いているのだと思った。
私は栗原さんや林と一緒にやるより他に道はないと考えた。
やるか止めさせるか二つに一つであるが、
かりに阻止したらすべて悲劇的結末になることは明瞭である。
所謂、幕僚によって革新勢力は根こそぎ撲滅させられてしまうことは明らかである。
林の言うように突破口を作ってそこで勝負するより他には道は無いと思った。
それにしても私は小藤聯隊長の考えは一度よく確かめてみたいと考えていた。

翌二十四日は何をしていたのか私には全く記憶がない。
しかし、この日我々の同志は蹶起の打合せに、そして計画にと一歩一歩前進していたのだ。
まさに息詰るような時間が流れていたのである。

二十五日の火曜日は雪も止み、
私は中隊を率いて、代々木練兵場に演習に行った。
間もなく出征する北満の野を思い、積雪地の不整地運動に習熟する為の訓練であった。
種々の基礎的訓練を行った後、私は中隊を班ごとに分けて、
代々木練兵場の周辺近い不整地を競走させてきびしく鍛えた。
午後四時頃、帰途についたが、
途中、初年兵の一人が転倒して足をいためたので
近くの民間の医院で応急の手当てをして帰った。
あとで兵士を聯隊の医務室に見舞って出てくるところを林少尉と出合った。
林は私に
「 おい、今晩だぞ。明朝未明にやる 」
と 言ったので、
「 よし、俺も行く 」
と 答えて中隊に帰った。
いよいよやるのだということで、
身の回りの整理するものは整理して、
夕食を居住室の食堂ですませてから自分の部屋に入った。
机に向って坐ると、
佐々木信綱の 「 萬葉読本 」、美濃部達吉博士の 「 法の本質 」 や
先日買ったばかりのショーロホフの 「 開かれた処女地 」 等の本と共に
義兄の海軍中尉小林敏四郎から贈られてきた 「 靖献遺言講話 」 が 置かれてあった。
私はその中の 「 出師の表 」 の 終りの諸葛孔明が出師の必要を説く最後の文章を読んだ。
凡そ事是の如く、逆(あらかじ)め見る可き難し。
臣鞠躬して力を盡し、死して後已まん。
成敗利鈍に至りては、臣の明の能く 逆(あらかじ)め観る所あらざるなり。
私はここを見て心の昻まりを覚え、迷いを断ち切った。

七時半過ぎであったと思うが、私は栗原中尉を機関銃隊に訪ねた。
栗原中尉は銃隊の入口に立っていた。
私は敬礼して
「 私も参加致します 」
と 言った。
栗原さんはうなずいて、私の顔をじっと見て、
「 俺は貴公を誘わなかったのだ 」
と 言った。
私が
「 林から聞きました 」
と 言うと、
栗原さんは、
私が一人息子だから誘いたくなかったのだ
と いうことと、
私が行かなくてもいいのだと言った。
それでも私は
「 是非、参加します 」
と きっぱり言いきった。
この時、栗原さんは
「 有難う、そうか、そこまで考えていてくれたのか。中に入り給え 」
と 言って
先に立って将校室に私を導き入れた。
そこには中島少尉がいたように思う。
初対面なのでお互いに紹介された。
それから林がやってきて、いささか興奮気味で栗原中尉と話していた。
私の記憶では、
中島少尉が出て行ってから、対馬中尉がやって来たように思う。
対馬中尉は豊橋の教導学校の教官で、
生徒を率いて参加する筈のところを同僚の板垣中尉に止められて単身やってきたのだ。
皆が腰を落着けてしばらく経つと、
対馬中尉はポケットからハンカチに包んだものを出して 一同の前に広げた。
それは荼毗に付した小さな数片の遺骨であった。
「 これは満洲で戦死した自分の最も信頼する同志菅原軍曹の骨だ 」
対馬中尉はその骨を握りしめ、
皆の手で触ってやってくれと言って、ハンカチを差し出した。
栗原さんも林も、そして私もそのハンカチを手にとり骨片を握りしめた。
菅原軍曹の骨は、対馬中尉のぬくもりで温かかった。
それは掌を通じて心の底まで伝わる温かさであった。
菅原軍曹は秋田の聯隊出身で、大岸大尉の仙台教導学校時代の教え子であった。
十月事件当時、
菅原軍曹は対馬中尉に呼ばれて、隊列を離れ、
体操服を着て銃剣を風呂敷に包んで駆けつけた人である。
彼は満洲の奉山線の北鎮という所に連絡にきていて、匪賊と戦って斃れた。
この葬儀の時、
対馬中尉は駈けつけて、その遺骨の一部を貰い受け、
肌身離さず持っていたものである。
また 郷里秋田での葬儀の時は相沢中佐も出席されたそうである。
相沢、大岸、対馬、菅原の心の結びつきがあった。
「 今日菅原軍曹と一緒に討入りをするのだ 」
と 対馬中尉は気魄をこめて語った。
栗原中尉から計画の説明を受けて私は緊張が次第に高まってゆくのを感じた。
我々の機関銃隊は首相官邸を襲撃することに決っていた。
そして機関銃隊を小銃三小隊と機関銃一小隊に編制し、
栗原中尉は第一小隊を、
私は第二小隊を、林が第三小隊、尾島曹長が機関銃隊を率いることに決定した。
栗原中尉と私、対馬中尉が表門から突入し、
林は第三小隊を率いて裏門から突入することにし、
その後、私が外部を固めて警戒する手筈になっていた。
しばらく経ってから週番指令の山口大尉が部屋に入ってきた。
そして、いつもと違った深刻な表情で、
「 今日の私は本庄閣下の親戚である私と、
一個人の山口としての私との 二つの体を持ちたい 」
と 言った。
皆と一緒に出撃したいが、
襲撃成功後の外交方面を担当するという意味であったように記憶する。

その頃、私は十一中隊の丹生中尉に連絡に行ったが、
その内容は何であったか覚えていない。
十一中隊の将校室には
香田大尉と共に、村中さんと磯部さんが軍服姿でいて、
私を見るとはっと驚きの表情を見せた。
丹生中尉が私を同志として紹介したので了解した。
両人は私と初対面ではないがよく覚えていなかったのである。
私は両人が既に免官の身であるにも拘らず、
軍服を着用していることに奇異の感を抱いたが、
非常の時と考えて、私自身深くそのことにこだわらなかった。
そこでは蹶起の趣意書を印刷していたようである。

一度機関銃隊に帰り、
大分夜が更けてから私は身支度をする為に、居住室の自分の部屋に帰った。
軍刀をあらため、身支度をととのえると私は机に向った。
栗原中尉から遺書など手掛りとなるものは書かないように言われていたが、
このまま黙って出発するに忍びず、両親と直属上官である中隊長と大隊長に遺書を書いた。
もうすぐ出発であり、もし発見されても襲撃は終わっていると判断したからである。
鉛筆で走り書きした。
父母宛のものが現在残っているので、恥を顧みずに書き写す。
乱筆にて失礼仕り候
俊彦事此の度 尊皇斬奸の精神に基き昭和維新に邁進申すべく候
天日照々として輝くを得ず、妖雲空を蔽ふの今日、誰か拱手傍観し得るものぞ、
今にして奸臣を討たずんば相沢中佐殿の御精神を生かすを得ず、
維新の消滅を将来する次第と存じ候
維新は我等純一無雑の青年の赤き血潮によつてのみ成就す。
俊彦死力を尽くして戦はん。
其の成敗利鈍に到りてはよく我が明の逆(あらかじ)め知る所に非ず。
父上、私のこの精神をよく理解下さることと思ひます。
最後に母上、兄上、姉上によろしく願上候
くれぐれも御健康に御注意下され、姉上と共に永く永く御暮し被下度候
二月二十五日    俊彦
父上様
そして手許に残っていた十円札を一枚同封し、私の始末費だと書き添えて封をした。
いま見るといくら急いでいたとは言え、全く拙い文章である。拙劣な文章である。
しかし私の心は燃えていた。
いまから首相官邸を襲撃するのだ。そして昭和維新に突入するのだ、との思いが胸に充満していた。
私は軍刀の柄を握りしめて決意を新たにした。
未来は燃えて灰になろうとも、灰の中から新しい生命が生まれ出ることを信じて疑わなかった。
もう一度、服装を点検してから私は着物の帯を剣帯の上に締めた。討入の時、軍刀の鞘がぶつからぬように考えたからである。
居住室を出て機関銃隊の方へ歩きながら、ふり返ると居住室の和田中尉の部屋の辺りに灯りがついていた。
居住室全体が暗がりを透して影絵のように遠ざかっていった

機関銃隊に帰ると、ぼつぼつ兵を起して出発の準備にかんかっていた。
栗原中尉は立ったり坐ったり、部屋を愞た利入ったりして、
「 全く時間が長い。一分が一時間のように感じられる 」
と 言っていた。
午前四時頃、銃隊は舎前に集結した。
私はその直前に、黙って銃隊を抜け出して自分の中隊である第一中隊に駆けつけ、下士官室に行った。
自分と行動を共にしてきた下士官だけ、一言お別れの挨拶をしなければ心が収まらなかったからである。
下士官室のドアをそっと開けてドアを閉めきり、私は鋭く低い声で一同を起こした。
下士官室には五名いたように記憶しているが、皆一斉にとび起きて前に整列した。
私の服装が軍装であるので、皆一様に緊張した面持ちで私を見詰めた。
「 今朝、全国青年将校有志は昭和維新のため一斉に決起した。教官も志を同じくする者と共にこの行動に参加する。
 おそらくこれが最後と思われるのでお別れに来た 」
と言って私は皆を見回した。
何となく一緒に行きそうな気配を感じ取って私は、
「 皆のうち教官と一緒に死にたいと思うものはついて来い 」
と言うと、新任の宮岡伍長と山下伍長が銃をとってついて来る姿勢を示した。
この時、古参の福川軍曹が両手を広げて遮り、
「 我々は中隊長の命令が無い限り動いてはならない 」 と言った。
私は自分の軽率であることを反省して静かに話した。
「 自分は皆と一緒に今日迄やってきた。 だからどうしても一言お別れの言葉を述べたかったのだ。
 皆ついて来ないように。皆は元気で満洲へ行ってくれ。
ただこのことは下にいる週番士官の森田特務曹長には黙っていてくれ、もしいま洩らしたら生命をもらうぞ。
自分は皆を信じてここに来たのだ 」
と言って別れの言葉を述べて階下に下りた。
不寝番が私に敬礼した。

私が急いで銃對に帰ると整列はほぼ完了していた。
私の第一中隊から機関銃隊に転属になった坪井一等兵がやってきて、
「 自分も一員として参加します。教官殿しっかりやりましょう 」
と、決意を披露した。
私は今回のことが将校だけの蹶起でなく、
兵の一人一人にまで浸透していることに深い感銘を覚えた。
坪井一等兵は勇猛で数少ない兵のうち実刑を受けた者の一人であった。

全員終結が終ったところで、
栗原中尉は、
かねてから話しておいた通り今日は愈々昭和維新を決行すると述べ、
次いで蹶起の趣意書を読みあげた。

次いで部隊の編制を下達し、
進行順序は第一小隊、第三小隊、第二小隊、機関銃隊とした。
なお
合言葉として
「 尊皇、斬奸 」
の 四文字を決めた。
「 尊皇討奸 」 と いう合言葉を使用した部隊もあったが、
我が機関銃隊は 「 尊皇斬奸 」 であった。
また
栗原中尉は三銭切手を出して
「 これは我々同志の印である 」
と 軍帽の裏側に貼ってある個所を示した。

命令が下った。
我々は、第一小隊を先頭に静かに正門を出ていった。
そして左折して聯隊の塀に沿って進み、師団長官舎の前を通り、
隊列は暗い道を辷るように進んでいった。
私には兵の一人一人が全員一丸となって、
この世紀の維新へ、日本の夜明に突入してゆく尖兵のように感じられた。
誰も命令だけで無理矢理に従うのではなく、
心の底から日本の夜明けを念じて参加している空気がうかがわれた。
菅原軍曹の遺骨も対馬中尉の胸に抱かれて進んでいった。
真暗な空から小雪がときどきちらつき、
足下は先日来の積雪のため雪明りではっきり見えた。
隊列は蕭々と音もなく進み、
溜池に出てそこから一気に首相官邸に向って歩を進めた。

生きている二・二六
池田俊彦 著より