あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

命令 「 柳下中尉は週番司令の代理となり 營内の指揮に任ずべし 」

2019年01月22日 13時13分34秒 | 前夜


柳下良二 中尉
二月二十二日から一週間
私は週番士官勤務についていた。
週番司令は安藤大尉である。
夕食はいつも将校集会所で週番士官達が同席したが、
二十三日 安藤大尉の妙な挙作に接した。
大尉は普段明朗な人だが
当日の夕食時には全く口を閉ざしたままで別人のように見えた。
おかしいこともあるものと思ったが、
考えてみるとその頃大尉は重大な決意に苦しんでおられたのだ。
即ち 蹶起にあたり、
下士官兵を連れ出すことを最後まで反対していた大尉だったが、
これを合法的なものにするための方法を種々研究していたに違いない。
ようやく結論を得たのか 翌日以降はまた いつもの本人になっていた。

二十四日
日夕点呼後
報告のために司令室に行くと部屋の中に 村中孝次元大尉 が いた。
  ( これより先 「 粛軍に関する意見書 」 により免官となった )
彼は軍服に身をかためて何か 安藤大尉と連絡している様子であり、
私の注目を惹いた。

二十五日
日夕点呼後 巡察をすませ 二二・三〇頃就寝したところ、
 二四・〇〇直前 安藤大尉の当番兵に起されて司令室に行った。
呼ばれたのは私一人だけだった。
安藤大尉はそこで
私に次のような要旨の命令を下した。
1  かねて相沢事件の公判に際し、真崎大将の出廷による証言を契機とし、
    事態は被告に有利に進展することが明かとなれり。
2  しかるに この成行きに反発する一部左翼分子が蠢動し、
    帝都内攪乱行動に出るとの情報に接す。
3  よって 聯隊は平時の警備計画にもとづき
    主力をあげて警備地域に出動し、警備に任ぜんとす。
4  出動部隊は第一、二、三、六、七、一〇の各中隊とし、
    機関銃隊は一六コ分隊を編成し、各中隊に分属せしむべし。
5  柳下中尉は週番司令の代理となり 営内の指揮に任ずべし。

私は思わず ハッとした。
遂に行動を起したのかと 寝耳に水の思いで命令を受領した。
安藤大尉は命令を下達し終ると
私の側にきて 「 柳下、この際 たのむよ 」 と いった。
銃隊に戻った私は忽ち判断に苦しんだ。
それは聯隊長不在間、聯隊の責任を持つ週番司令の命令であるにせよ、
銃隊の主力を出動させるのに銃隊長に無断で命令はくだせない。
当然報告して 決心を仰がねばならぬ ということである。
そこで 〇〇・三〇頃
銃隊長の当番兵を伝令として、
大雪なのでタクシーで銃隊長宅に赴かしめその指示を仰ぐよう指令した 。
銃隊長の自宅は高円寺である。
待つこと約一時間、
当番兵だけが帰ってきた。
銃隊長は出張先の豊橋教導学校から未だ帰宅していないとのこと。
遂に私は決心し下士官集合を命じ 前記命令を伝え、
次いで 非常呼集をかけた。
こうして 〇二・〇〇までに編成を終わり各中隊に差向けた。
しかし 機関銃隊の主力が出動するのに将校が残留することは通常あり得ないことなので、
私自身も出動を決意し
当番兵の藤野に世田谷の自宅から軍刀、拳銃なとせの軍装品を持ってくることを命じた。
ところが藤野は衛兵所の前で安藤大尉に見咎められ追返されてきた。
続いて同大尉が銃隊将校室にやってきて
当番兵派遣の理由を聞いたので、
出動の決意と軍装品の必要について答えたところ、その必要なしといわれ、
あくまで聯隊内の警備にあたるように重ねて命令された。
そこで銃隊としては先任の立石曹長を指揮官として差出すことにした。
部隊は四時頃から逐次出発。
私は営門の所で 全部出動し終わるまで見送りを続けた。
粛々として営門を出て行く下士官兵たちの心境や如何。
路上は残雪が凍てつき 寒気はいよいよ厳しかった。
しかし その時は蹶起計画を打ち明けられていなかった私として、
事件の全貌を予想することはできなかったが、
後にして想えば、
正に 「 昭和維新 」 に向って幕が切って落とされた一瞬だったわけである。

それから約二時間、
〇六・〇〇頃には聯隊長以下各隊の将校が急を聞いて聯隊にやってきた。
私は早速聯隊長に事の一切を報告したところ、
一瞬 驚きの色を浮べたが動揺といったものは見られず、
将校の間にも半ば是認する空気さえ感じられた。
これは、あるいは私の錯覚かも知れないが
一言でいえば 『 よくやった 』 と いうことだ。
六時過ぎから断片的ではあるが 出動部隊の行動が逐次入ってきた。
日本をひっくり返すような大事件となったわけであり、
聯隊内はことの予想以上の発展に驚愕した。
私たちはその中でジッと事態を見守るだけであった。
午後になると
一五・三〇 東京警備司令部から陸軍大臣告示が出され、
同時に出動部隊にも伝えられたという。
私たちはそれを一読した途端 期せずしてドヨメキが立のぼった。
蹶起部隊の真意を陛下がお認め下さったのである。
行動は正しいのだ。
昭和維新の実現は早くも時間の問題であると判断して、
我々は出動した将兵に思いを馳せた。
早速出動部隊に対し 炊出しがはじまった。
厳寒の中を行動しているので、
暖かいものを食べさせてやろうと
経理将校以下炊事班が懸命になって準備に入った。

二十七日 〇八・〇〇、戒厳令が発令され、
 蹶起部隊は地区警備隊として香椎戒厳司令官の隷下に編入された。
一方 その頃 東京周辺に駐屯する各聯隊が続々上京してきて
共に香椎戒厳司令官の指揮下に入った。
その時点では警備兵力の不足を増強するため
と いうことを表面上の理由にしていたと思われる。
ところが
二十八日 〇六・三〇、奉勅命令なるものが出された。
この内容は蹶起部隊は占拠をやめて聯隊に帰れというものだが、
どういうわけか 蹶起部隊には伝わらなかった。
そのため部隊は相変わらず現場で頑張っていたところ、
命令を聞かなければ
鎮圧部隊が攻撃を仕掛けるという高圧的な態度に出たため、
あわや皇軍相撃の事態を迎えるかに至った。
しかし 攻撃開始命令の延伸と二十九日のラジオ放送
並びにビラの撒布によって
蹶起部隊はようやく事態の大要を承知し、
奉勅命令を知らぬまま、原隊復帰に踏切ったのである。
この辺の経緯は聯隊に在る私たちにとっても奇妙な感を抱かせ、
戒厳司令部やその背後の軍上層部内の混乱ぶりが如実に窺がわれた。
命令は作文されただけで伝えることをせず、
その揚句命令違反を唱え、果ては逆賊呼ばわりにする一方的な振舞いには腹が立った。
何故堂々と話合えなかったのか、
これでは殺し文句で相手をねじ伏せたようなものだ。
今も二・二六事件の謎の一つとなっているが、
まことに不可解である。

こうして蹶起部隊は二十九日までに下士官が指揮して原隊に復帰し、
将校は全員 ( 陸軍大臣官邸で自決した野中大尉を除く )
陸軍衛戍刑務所に収容され、
さしもの大事件も表面的には落着した。
その後 聯隊内では幹部の大移動が行われ、一期の検閲も三月末に終了できたが、
この間 私は聯隊長から重謹慎の処分を受けた。
これは聯隊長の判断によって行使する行政処分で、
私のとった処置が不適当であったことを意味するものである。
これより先、
三月四日になると 東京憲兵隊の鎌田憲兵中尉がやってきて事情聴取を、
次いで 十二、三日の両日 憲兵隊に出頭して取調べを受けた。
その時憲兵は 「この程度なら大したことはありません 」
と 安心させるようなことをいった。
私は変な予感を覚えたが以後何事もなく過ぎたものの
四月五日にまたしても第一師団法務部から出頭命令がきた。
出向いてみると大尉相当の法務官が私を迎え 再び取調にあたり、
終了と同時に刑務所に送られ
以後五月上旬まで一日置き位いに十五回ほど取調べられ
遂に起訴となった。
収容された代々木の衛戍刑務所は、
斜面に作られていて高い管理棟 ( 受付、事務室等 ) があり、
その下の建物から下方に向って数棟の獄舎が並列していた。
新入者は管理棟近くの獄舎に入るらしく、
早く入所した者ほど下方になるようだ。

私にとってここに入所中 忘れられない思い出がある。
入所して幾日か過ぎた頃、
丁度下方の獄舎の相向いに、見たような顔つきの者を発見した。
やがてそれが安藤大尉であることが判明したので、
早速足しは空間にカタカナを書いて知らせると、
安藤大尉もすぐに返事をくれた。
以後看守の巡視の合間を見ては、手まめに通信を続けた。
安藤大尉は私の入所を心から詫び 申しわけないといい続けた。
七月十二日は安藤大尉等の処刑の日だった。
その前夜静かな空気の中には御題目を唱える声が聞えてきた。
四号棟か五号棟あたりだ。
すると 別の方から大声で叫ぶ声がおこった。
その声はよく聴きとれないが、
おそらく軍部や裁判への怨みか 将又 妻子肉親への別れの辞だったか、
この世を去って行く者の心境が我がことのように胸をえぐる。
昭和維新の夢破れ、
刑場の露と消えようとする彼等を思えば 洵まことに感慨無量、
真に国の為と蹶起した青年将校諸先輩の冥福を衷心から祈るばかりであった。
明日の我が身もかくなるのであろうと悟りつつも
耐えられぬ思いで彼等の声を聞いていた。
翌十二日、
私は早くから起き上って安藤大尉の姿を求めた。
すると彼も既に起きていてこちらを見つめていた。
まだ朝が明けきらず、白みかかった頃なので四時頃だったのではあるまいか。
フト安藤大尉は両手をあげると首を絞めるゼスチュアを示した。
『 愈々 今日は処刑だよ、お世話になった 』
大尉は私に分れを告げたのである。
その日は日曜日であったが、
隣接する代々木練兵場では早朝から擬装の演習を実施していたようで、
空包の音がしきりに鳴っていた。
鳴り止んだと思うとまた パンパン響き出す。
空包の音は一種の軽快音が特徴だ。
ところがこの空包音の合間を縫って
七時頃から三回にわたり、
ブスッ ! ブスッ ! という実包の発射音が聞えた。
まぎれもなく処刑する小銃音だ。
遂に処刑されたか・・・・
と 私は暗然たる気持ちにうたれ合掌して彼等の冥福を祈った。
今もあの当時の光景が脳裏に焼き付いて消えることはない。
あのような簡単な裁判=『 東京特設軍法会議 』
の 名による非公開、上告なしの一審制、
弁護人抜きの裁判=で 人間を死刑にできるとは到底思えない。
統制派にとっては邪魔者すべからく抹殺するのが鉄則だったのであろう。
あの夜は私にとって悪夢のような一夜だった。
夜空に響くような悲痛な絶叫も 仏心に帰衣するための御題目も
この世の声とは思われなかったからである。

さて 私を裁く軍法会議は六月下旬から始まった。
五回呼び出され 二回尋問に答えたが
この時の被告は 山口一太郎大尉、新井勲中尉との三名で
出廷し尋問を受けた者は起立して答えるゆり方だった。
私の裁判で判士長 ( 裁判長 ) から特に強調してきかれたのは、
当夜 安藤大尉から十六コ分隊の編成と分属を命令された時、
万一命令をきかぬ場合、
何等か生命の危険にさらされるのではないかという
脅迫感があったかどうか ---と いう点であったが、
私は即座に そんなことはなかったと答えた。
これは まことに重大なポイントで 今にして想えば
判士長が私の行為を 脅迫による止むを得ないものと判断するための
心証を作らせようとする温情であったように思われる。
こうして
七月二十九日 判決がくだり、
私は禁錮四年の実刑をいい渡され 同時に免官となった。
そして一週間後
一般刑務所である中野の豊多摩刑務所に移されここで服役することとなった。
禁錮刑というのは出所するまで何の作業もやらず、
ジッと独房内で読書に明け暮れて起居する刑罰で 退屈極まりないものである。
追々判明したことだが、
ここには二・二六関係の短期受刑者の殆どが収容されていたのであった。
・・・
思えば 二・二六事件は遠い過去の語り草となったが、
関係者にとっては 終生忘れることのできない深い傷痕を残した。
私もその一人として投獄の憂目を見た。
何といいようのない獄舎の起居、
もう二度と体験することはないが、罪人のみじめさをつくづく味った。
しかしながら 二・二六事件に連座したことについて
私個人としては決して後悔はしていない。
何故なら
『 小節の信義を重んじて 大綱の順逆を誤った 』
と いわばいえ、
日頃 心服していた安藤大尉の憂国の至情に殉じ、
その今生最後の命令を忠実に実行したことに秘かな喜びを感ずるからである。
ただし 私の命令で出動した部下の下士官兵の中には、
その後 数奇な運命に弄もてあそばれた者も少なくないので、
想いをここに致せば 心中暗然たるものがあり、
「 もしも あの時・・・・」
と いう 悔いが決してないわけではない。

歩兵第三聯隊 機関銃隊付 柳下良二中尉
『 銃隊長分属命令に従う 』 二・二六事件と郷土兵 から