先週、松下圭一先生が逝かれました。85歳。「市民自治の憲法理論」(岩波新書1975年)、「シビルミニマムの思想」(東大出版会1971年)で、私たちの世代に圧倒的な影響を与えた政治学者です。
「憲法は国家のものか、市民のものか。今日、市民運動の昴進は、従来国家統治の対象とみられていた市民こそが、憲法理論をつくる主体であることを認識させつつある。本書は、既成法学の国家法人論的概念構成を批判し、市民自治から発する分節政治システムと、基本的人権を核とした国民の政府への機構信託を構想することによって、憲法学と政治学の結合を前提とした、国民主権の日常的発動を目標とする憲法理論の再構成を具体的に展開する」(「市民自治の憲法理論」帯文)。
その考えは何と新鮮であったことでしょう。書かれた著書は幾冊も幾度も読み返し、職場でも繁く議論しあったものです。理論としてだけではありません。東京都は行政計画(1968年)を策定する際、基本的考え方として松下「シビルミニマム」論を採用していたのです。
何年前のことだったでしょうか、ある日飯田橋駅から総武線に乗ると、目の前に座っておられたのが松下先生でした。古くからの知己の気持ちになり、思わず声をかけてしまいました。
「失礼ですが松下先生ですね。わたくし、先生の「市民自治の憲法理論」に大変啓発され、東京都庁に身を置きました。一度お会いしたいと思っていただけに嬉しゅうございます」。
そう申し上げると松下先生も頗る嬉しそうな顔をされ、「どうですか、次の駅で降りませんか。お茶でも飲みながら色々お話ししようではありませんか」と誘って下さったのです。が生憎、会議を控えていた私は「近々に先生の処にお邪魔いたします」と申し上げ、千載一遇のチャンスを逃してしまったのです。
しかしそれ以上に残念なのは、この松下理論が昨今では菅直人や鳩山由紀夫らの民主党の理論的支柱になったと批判されていることです。
確かに地方自治の強調は国家否定の側面を持ちます。見方によればアナキズムに底通する危険性もありましょう。しかし民主党のチルディッシュな失政がいかに問題であるにせよ、地方自治に市民権を与えた松下理論の歴史的意味まで否定することには、率直に言って多く抵抗感があるというものです。