時のたつのは早いものです。今年も今日で半年が終わります。しかしこの間で自分は大学や地域に何を残せたのか、走ってばかりで殆ど果実を作れない空回りの生活に苦笑する昨今です。
いつぞや昔、余暇開発センターに行ったところ担当者が目を真っ赤にしていました。いわく「いやあ報告書の取りまとめで、今朝まで徹夜したものだから」と。その弁解を聞いて笑い転げたものでした。余暇創出を目的とするセンターが夜を徹しての仕事をするというのですから。でも常に周囲から何かを求められているような切迫感下での今の自分の生活であれば、そうした仕事振りを笑うことなど出来ません。
老子はかつて無為自然を説きました。人為を廃し自然であることが道に通じると諭したといいます。競い合って不幸になろうとしているのが近代化であり、昨今の文明志向とも揶揄されるだけに、こうした無為の主張は新鮮です。
しかし社会に組み込まれた現代の窮屈な日常のなかで、せいぜいやれる無為の癒しは、ひとり悠然と!音楽を聴くことくらいでしょうか。そう思って、例えば厚木の大学キャンパスに向かう車の中で朝聴くCDといえば、時空を越えての極めて懐かしいドメスティックな曲なのです。何を隠そう神楽坂はん子であり、東海林太郎であり、岡晴夫といった面々なのです。
役人の現役の頃、姉妹都市交流や国連との打ち合わせで繁く海外に出かけることがありました。長い交渉を終えて帰国する飛行機の中で、乾いた気持ちを何が一番癒すかといえば、何のことはない、ヘッドホンから流れてくる日本のメロディでした。
そうなのです。演歌にしろ、三味線の音色にしろ、かつての日本的な響きが何とも貴重になってきているのです。いやいや耳や目だけではありません。思想そのものもどんどん日本帰りしていることに気づきます。加齢のなせる業か、DNAの所以か、それとも西洋思想を皮相的に日本社会に貼り付けようとしてきた社会の薄さの故かも知れません。
そんなこんなの雑念に少し煩わされながらも昨日今日、芸者ワルツをハミングし異国の丘に涙して時を過ごす、小さな癒しの幸せを味わう初夏の夕方です。