嶋津隆文オフィシャルブログ

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国立マンション訴訟、戦いすんで日が暮れて

2008年03月14日 | Weblog

国立市の大学通り、明和マンションの建設に係る最高裁の判決が3月11日に出ました。2審の高裁判決(平成17年12月)を再確認であり、国立市の敗訴が確定しました。しかしこの訴訟に関して出された高裁、最高裁の判決は極めて特異な内容になっていることに気づかねばなりません。市が負担すべきとされた賠償金2500万円の賠償の根拠が、いわゆる景観問題の是非というのでなく、むしろ上原公子(前市長)なる個人の過激な言動にあるということです。

「建設計画が公になっていない時点で(情報を仲間の)住民らに話し、反対運動を促した」
「市議会で(法的に瑕疵なく建築手続を行った明和マンションを)違反建築物と答弁した」
これが市敗訴の判決に理由なのです。国立の市長というより一介のラジカルな住民活動家として、明和マンションを糾弾しようとした行為が責任の根拠になっているのです。

先の高裁判決ではさらに、次のように前市長が判決文の中で批判されていました。
「(上原市長の言動は)首長に要請される中立性・公正性を逸脱している」
「異例かつ執拗な行為であり、社会通念上許容される限度を逸脱している」
ちなみに上原市長は、反対運動を徹底するために、明和マンションの電気や水道の供給までも留保するよう管理者たる東京都に働きかけました。生活の基本を断たれようとしたマンション住民の怒りは未だに収まらず、今日に尾をひいています。

確かに明和マンションの高さには、大学通りの景観上に違和感があったことは私自身も否定しません。しかし高さの制限については、久しく国立市が行政として手をこまねいてきたところに原因があるのです。その行政の無作為を棚に上げ、目に付いた個別例を難詰し、しかも現物の建物が立ってしまった後もその取壊しを叫び続けているのです。捕鯨船に反対する余り危険物を投げてよしとするテロリスト「シー・シェパード」の行為と二重写しになるといったら言葉が過ぎるでしょうか。理念が正しいと思いつめることで、既存の法手続きを無視することが許されるとしたら、法治社会とはいえません。

戦いすんで日が暮れて・・。騒動は去り、判決は上原派敗訴で確定しました。しかしマンションは厳然と残っています。その上で残されたのは財政逼迫する国立市に降ってかかる2500万円もの賠償金と膨大な弁護士費用です。財政難の国立市はこの大きな額をどういった形で支払っていこうとするのでしょう。いうまでもなく上原市長は市政から離れました。

国立市内全般での建物の高さ制限については、次年度に国立市では規制作業に入るとの方針が出されました。まことに遅れての着手だとは思いながら、これも市がとるべきマンション騒動の一つの教訓だと評価します。しかし市民負担の肥大化の視点を欠き、諸判決が出された段階での現実的な着地を考慮せず、負け戦を承知でただひたすら突っ込んでいった上原前市長は、この戦争責任のオトシマエをどうつけるつもりでしょう。和解して明和地所から景観保護の協力金などを出させるなどの現実的な選択もあったはずです。

賠償額の高さと上原責任明記の判決文をみるならば、少なくとも前市長は国立市との共同不法行為責任を負わなければならないものと思えます。賠償の支払いについてはそれが市税であるだけに曖昧には出来ないものです。銀行の経営者がそうであるように、株主ならず市民に対し損害を与えた責任を個人的にも負うことが当然なのです。まして政治とは結果責任が問われるもの。自らの住民活動家としての思想のために、市政を道具として利用した責任は決して小さくはないと考えます。

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