「くにたち政治経済研究会」ができてちょうど半年となりました。春の地方選挙の国立での混乱を目の当たりにして、このままの街ではいけないと、青年会議所や商工会の若手メンバーが軸となって発足した勉強会です。この間、国立駅周辺の街づくりの停滞、国立の教育問題、改善されない市財政といったテーマで、月一回のペースでもたれてきました。
その研究会の忘年会が、昨夜ありました。次々に発言する20数人のメンバーの言葉を耳にしながら改めて納得することは、彼らが前向きで、しかも大変柔軟な姿勢をもっているということでした。すみよいまちづくりを進めるため、より多くの知識を吸収したい、そのためには政治的な保革など問わず広く講師としても呼びたいという積極さと心広さがあったのです。それは何とも新鮮なものでした。
幕末の長州藩に周布政之助(すふまさのすけ)という人物がいます。富国強兵を目標に藩政改革を推進した村田清風の跡を継ぎ、革新的政治家として藩内外の志士を指導し、難局に対処した男です。蛤御門の変のあと自刃しますが、注目すべきは、彼が萩の仲間で嚶鳴社というグループを発足させたことです。
この結社が、幕末の回天をもたらし大きなコアになっていきました。メンバーには桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多(井上馨)、伊藤博文らといった萩藩の多くの若手が集い、やがて尊王攘夷派、倒幕派となって長州と日本を変えていくことになるのです。
嚶鳴とは鳥が仲間を求めて鳴き交うという意味で、志(こころざし)を同じくする者たちが、国の未来を大いに語り合おうといったところから名づけられました。しかしその勉強会は、語り合うだけでなく実践として実を結び、明治維新への流れをつくる改革のエネルギーとなっていったのです。
昨夜の忘年会で代表の一人が、この硬直した国立の街を変えていくには「青臭く、泥臭くやっていくしかない」と決意を述べていました。地味な研究会が、しかし確実に地域を変えていくに違いないことを予感させる言葉ではなかったかと感じ入ったものです。
まさに「くにたち政治経済研究会」は、この国立のまちの嚶鳴社になるのではないか。そう期待感を膨らませるものであり、若手がくり出していった2次会には参加しなかったものの、心楽しく、ひとり鼻歌まじりに夜道の帰宅を急いだ次第です。