嶋津隆文オフィシャルブログ

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「森の里」とは「毛利の里」だという衝撃

2008年06月16日 | Weblog

「旅は、万の書籍にもすぐるのではないか」と先のブログ(6月5日付)に書きました。実は幕末の長州(毛利)藩の形跡を辿っての山口の旅は、古文書と源氏ホタルによって感動させてくれただけでなく、何ともう一つの衝撃的な出会いを私に与えてくれていたのです。

それはこういうことです。

大雨の6月4日、毛利藩が開作した三田尻の塩田跡をめぐってから、防府市の毛利博物館に足を向けました。この館は明治になって井上馨が、藩主毛利家のために建てさせた大邸宅を資料館としたところです。そこで毛利家の年表を見ていてオヤと思いました。中国地方とばかりに考えていた毛利家の発祥の地が、相模の国毛利の庄だと記されていたのです。

副館長に訪ねると、「そうですね、確か神奈川県の厚木のあたりだと聞いています」というではないですか。驚きました。東京に帰って早速に調べてみると、何とこの毛利の庄(森の庄)とは、わが松蔭大学のすぐ界隈であったのです。厚木市古沢。私の研究室から首を出せば見えるほど近くの三島神社にその旨を刻んだ碑も建てられていました。

自分の不明を恥ずかしく思うよりも、この史実を知らされたことに声を出して興奮してしまいました。13世紀の鎌倉時代、頼朝に信頼の厚かった大江広元が荘園として受け、その4男季光(すえみつ)がこの地名の毛利の姓を名乗ったのが始まりというのです。やがて越後、そして広島に移って、その後毛利家の繁栄は築かれたのです。

改めて聞き歩いてみると、近所に毛利姓の家もあり、毛利台小学校なる学校名も存在し、何よりも松陰大学を含むこの県の研究開発エリアの地域名「森の里」も、そもそもは「毛利の里」から出たものであるとも教えられました。ワクワクするような話です。

こうなると、研究活動のインセンティブが違ってくるというものです。松蔭大学という名称と建学理念からして毛利藩の吉田松陰と結びつき、私の研究テーマである村田清風にしてもまさに長州藩家老であり、かてて加えて所在する地域の歴史そのものが毛利藩と結びつくというのですから。

この二重三重の縁に夢は広がります。松蔭大学と山口の研究者たちとの研究交流も考えられ、厚木市と山口の自治体との市民交流も考えられるというものです。観光振興の上でも二つの地元に大いに有効な資源といえましょう。山口が源氏ホタルなら厚木は平家ホタルを飛ばそうか等との軽口も出てこようというものです。

梅雨時に気持ちが塞ぎそうになる昨日今日です。しかしちょっと楽しいエピソードとして、今日はこんなブログを記しておくことといたします。
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