先週末、京都亀岡の湯の花温泉で過ごした帰路、亀岡に本部(教宣部)を置く大本教の施設に向かいました。学生時代に身震いして読んだ高橋和巳『邪宗門』。その舞台となったこの地を是が非でも見たかったのです。
馬齢を重ねた恥をここでも味わいます。一つはこの大本の敷地が明智光秀の亀山城跡であったことへの無知です。二つは大本教弾圧(大正10年、昭和10年)が、大本教信者を多く擁した軍部への、内務省の警戒として行われたとの指摘です。不明を恥じながらも、頗る興味を持っての訪問となりました。
すると教団の解説時に、同伴の同僚がふとこう言いました。「反逆の象徴たる光秀の居城をわざわざ本部として購入した出口王仁三郎。教義以上に反権威主義的であり、挑発そのものではなかったか」。そしてこうも呟くのに思わず賛同したものでした。「ひょっとして王仁三郎の強靭さは、子どもの頃に見た亀山城をただ単純に復元したかったからではなかったろうか」。
それにしても高橋和巳が39歳で逝って今年で44年。京大で紛争時に学生側を支持して辞職。『悲の器』『我が心は石にあらず』『憂鬱なる党派』の作はどれもこれも往時の学生には三島由紀夫や吉本隆明以上に読まれていたと言えましょう。「苦悩教の始祖」と呼ばれながらも、その圧倒的な知性にはまさに「うちにのめされた」ものです。その半世紀前の思いを苦く懐かしむ丹波の旅でありました。