嶋津隆文オフィシャルブログ

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太宰治が憤慨した青森県庁の所在地問題

2011年02月16日 | Weblog

写真:五所川原市金木の太宰治の生家「斜陽館」(本人撮影)

先日、都庁の畏敬の先輩で、歴史作家である童門冬二さんから、一冊の本をいただきました。先輩が書き下された『人生を励ます太宰治の言葉』(致知出版社)です。腰巻にこうありました。「本当の太宰治は、苦悩の底に明るい心を持っていた」と。

しかしあのペシミストの権化と称された太宰です。「人生を励ます」言葉があろうものかと、大いに訝りながらページをめくったものでした。そしてその警戒心は半分当たり、しかし半分は修正を余儀なくなされました。

修正を余儀なくされた言葉は、たとえばこうです。
「いったいこの城下まち(弘前市)は、だらしないのだ。旧藩主(津軽氏)の代々のお城がありながら、県庁を他の新興のまちに奪われている。日本全国、たいていの県庁所在地は、旧藩の城下まちである。青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持って行かざるを得なかったところに、青森県の不幸があったとさえ私は思っている」。

何とも心楽しくなる指摘ではないでしょうか。しかも更にこうも言っているのです。
「私は、ただ、この弘前市が負けていながら、のほほん顔でいるのが歯がゆいのである」。

昨秋、弘前大学で学会があり、はじめて津軽を訪れました。その折に味わった青森市の殺伐感に比しての、異様なほどの弘前の落ち着きを思い浮かべるとき、この太宰の愚痴には大いに納得してしまうというものです。

そうなのです。何にしても青森の県庁は、新参の青森市でなく、藩都の弘前市でなければいけなかったのです。地域の結集軸には、歴史や伝統が欠かせないからです。

それにしてもと、はっと別のことに思い当たりました。童門先輩は、ペシミスト太宰の言葉だからこそ、その意外性を逆手にとって、一層効果的に「人生を励ます」作用を展開しようとしたのではないかと。そう思うと、先輩のしたたかさに改めて舌を巻かされるというものです。

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