スティーヴン・ミルハウザー、『バーナム博物館』

 おびただしい数の出入り口を幾度もくぐり、おびただしい数の通路を幾度も過ぎ、あの部屋からこっちの部屋、こっちの部屋からあっちの部屋へ、散々さ迷ってようやっと最後の頁にたどり着いた。一つの部屋にも出入り口が二つある。或いは四つそれともそれ以上…。
 まず、物語の中に沢山の部屋がある。いや、部屋なんてほとんど出てこない作品もあるけれど、読み進んでいるうちに、出入り口と通路と部屋とがどこまでも繋がり合って終わらない…そんなイメージに取り憑かれた。閉ざされた部屋、開いた部屋。その眩暈感に参ってしまった。

 『バーナム博物館』、スティーヴン・ミルハウザーを読みました。


 短くて実験的な作品には、時々息苦しくなるような感覚すらあった。閉じ具合が怖いというか…。
 ここでは好きだった作品について、ちょっと書いてみる。 

 少し読みにくいかなぁ?という滑り出しであったが、「アリスは、落ちながら」→「青いカーテンの向こうで」あたりから面白くなった。 
 「アリスは、落ちながら」は、『不思議の国のアリス』の中のあの、“ウサギを追いかけたら穴に落っこちる”ところだけが、異様に引き延ばされた作品である。いったいどこまで落ち続けるのだろう…?と、読んでいる方までげんなりしてくるけれど、アリスの理屈っぽさがいかにもアリスらしくて、納得させられたかな。
 「青いカーテンの向こうで」は、映画好きな男の子が、ほんのひと時だけ映画館の中(スクリーンの裏側かな?)で不思議な体験をする話。まずここで、部屋から通路そしてまた次の部屋…という展開が出てくる。これはちょっとした少年の冒険もの(ひたすら見て聴いていただけか…。でもそこが面白いんじゃが)なので、楽しく読めた。 

 悪酔いをしてしまったのは、「探偵ゲーム」。
 弟の誕生日に合わせて顔をそろえた兄と姉がいて、さらに兄のガールフレンドまでいて、4人でテーブルの上のゲーム盤を囲んでいる。3人兄弟の中に他人の飛び入りがあって、いつもの兄弟間のバランスがちょっと狂っているみたいな印象もある。和気あいあいとは、すこぶる言いがたい雰囲気。そしてそのゲームが、探偵ゲーム。
 探偵ゲームには何人かの登場人物がいる。驚くことには、駒に過ぎないはずの彼らにも、ゲームをしている4人にはあずかりしるところでない物語があるらしい。ゲームをしている方の4人の心情、思惑と(途中から、両親のそれも入ってくる)、ゲーム内にいる6人の方のストーリーが交互に語られていくのだが、その間に何かしらの絡みがあるのかと思いきや…。うーん。
 実は私、この作品が好きだったのだと思う。どこがどう面白いのか自分でもよくわからないながら、何故かひき込まれるものがあって、だから悪酔いをしてしまった。部屋から部屋へ、そしてまた部屋へ、通路を歩いて出入り口をくぐり…。交叉する通路に、頭がぐらぐら。いささか鬱々としながらも、切ないような、誰かに同情的になっているときみたいな気分に陥りつつ読んでいた。誰に同情していたのだろう…? 好きと思いつつよくわからなくて、動揺したままの感想…。

 読みやすくて楽しめたのは、表題作と、「幻影師、アイゼンハイム」。
 結局“バーナム博物館”って、物語そのもののことでもあるのだろうか? 
 例えば私は、綺麗で品の良いものを眺めるのが好きだが、じゃあ実際にただ綺麗で洗練された物に囲まれていたら嬉しいかと言うと、全くそうではない。むしろ普段自分の周りにあるのは、ガラクタでいいくらいだ。胡散臭くてキッチュで、自分にだけ価値あるガラス玉のようなものたちでいい。だから、たちの悪いいんちきばかりで、胡散臭くて不道徳で醜悪なまやかし尽くし…のバーナム博物館が、どんなに一方では非難されても、多くの人々を魅了してやまないことに、我が意を得たりと頷くのであった。 
 濁りなく清らかなものだけでは、人は決して満足できない。さらに言えば私は、「でも、人魚は本物だぞ!(たぶん…)」と、ちっちゃく叫んでバーナム博物館を擁護する側の人でいたい。まやかしの中の、本物。

 「幻影師、アイゼンハイム」は、一番読みやすく鑑賞しやすかった。
 稀代の天才奇術師アイゼンハイムの奇術によって、何らかの境界(現実と非現実?虚構?)が侵されるという脅威が面白い。魅入られて夢中になった人たちは、無意識の内にはその不安を感じ取っていても、最後まで目を逸らすことが出来ない。

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犬養道子さん、『花々と星々と』

 神戸の賑やかな街の一画にある、こぢんまりとした古本などを扱うお店。陽射しの強い夏の日、お店を探し当てた私が見付けたのは、犬養道子さんの著作だった。待っていたみたいに、ただ目の前の棚にあったのだけれど。
 なんて洒落たセンスの文庫本かしら…と手に取った次第。

 『花々と星々と』、犬養道子を読みました。
 

〔 今日ののち、どれほどの長い時があとからあとから押し寄せて来てくれるとしたところで、めぐる月や太陽や星々の無窮の前には物の数にもなりはしない。
 それなら私は物語をいまはじめよう。 〕 26頁

 読み始めてしばらくは、「この少女はなんと恵まれていることだろう。いったいどんな恩寵を受けて、この世に生まれ落ちてきたものか」と、眼を丸くするような思いで読んでいた。
 まずもちろん、その華麗なる系譜に目を瞠る。父方の祖父は犬養木堂毅(後に首相となる)であり、母方の曾祖父は明治維新の大立者・後藤象二郎である。さらに母方には、西洋医学を志した長与家の流れも汲まれている。
 が、そのような出生の持つ華やかさが、当の本人にとって幸なのか不幸なのか、私にはわからない。私がこの少女に対して、この上なく恵まれていると感じたこと、それは…。
 仲睦まじく愛情深く、何事をも型に嵌めようとしない自由奔放なやり方で、見守り育んでくれる優しい両親の存在に常に包まれていたこと。そして、そんな両親と親しく付き合いながら、その娘の道ちゃんを子ども扱いするでなく対等に接し、自己を、真の自分らしさを尊ぶ白樺の伸びやかな精神を、少しずつ教えてくれた大人たちからの豊かな感化。健やかな若木が水をもらいながら背を伸ばしていく如く、矯められることのない土壌で、何処までも伸びやかに成長していけることの素晴らしさを思った時、「この少女はなんと恵まれていることだろう」と、感じ入らずにはいられなかった。たとえこの後どんなことが待ち受けていたとしても、常に支えてくれる糧となるものを、少女は日々知らずして、周りから与えられていたのではなかろうか…と。

 白樺の作家であった父・犬養健の自宅には、武者(小路実篤)さんや芥川さんが立ち寄る。岸田(劉生)さんはパパと相撲をとるし、空気のような木ノケンさんはいつも家にいて、絵を見てくれた。苦しみ抜いた漱石とは違い、自我を称えた白樺の人々。高等遊民でいられるだけの背後があって、世間には嫌味とも映る鷹揚さで、「お金がない、お金がない」と、歌うように繰り返した人たちとの自由な日々。
 そんな、耀くようなノンシャランな、その時代のきな臭さからそこだけが見逃されていたかのような彼らの生活も、いつかは終わらせねばならない時がくるのだけれど。

 白樺の人々との交流を描く一方で、身内の女性たちが印象的に描かれていることも忘れがたい。そしてその筆頭は、やはり母親の仲子である。 
 いつもころころとよく笑い、普通の人がこわがる血やダンビラをこわがらない道ちゃんのママが、あやしげな有象無象に向かって啖呵を切る場面は、胸がすくほどに気持ちが良い。だが、とても皮肉なことに、友人であった石井(桃子)さんに「惜しいこと」と言わしめるほどの、仲子の優れた資質や科学者の血は、最悪の状況下においてめざましく発揮されることになる。ころころと笑い転げる姿の似合っていたママの、険しく厳しい数奇な運命の幕開けを決定づけるように…。

 コントラストの鮮やかな、二人のお祖母ちゃま。彼女たちのことについて割かれている箇所も、とても好きだった。
 かつては薔薇や牡丹にたとえられた、絶世の美人だった母方の祖母・延子は、“困る”とはいったいどういうことなのかもよくわからない、おひい様の後家さんだった。でも、全てを失う嵐が通ったあとでさえ、なお誇らしげに自分自身を変えることなく、維新の血をひく娘であることを示し続けて生きた。 
 一方父方の祖母・千代は、抜きん出た経営者素質を持った、色街出身の女傑であった。特にこの、締り屋なお祖母ちゃまのエピソード(『セドドイド』)には、時代を一つ二つ先取りした合理性に、くくくっ…と笑いつつも感心させられた。

 後に加筆された最後の二章のことは、何も言えない。誰にとっても辛い時代だったとは思うのだが、本当にこんなことが、自分にとってかけがえのない、大切な人たちの身に降りかかるなんて…。考えられない。

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