エリザベス・ボウエン、『リトル・ガールズ』

 邪気なく、ありのままの存在が意地悪。切羽詰まっているかと思えば、蝶のように気まぐれ。 
 少女たちの唇からこぼれ落ちる言葉は、放たれる傍から行き場を見失う。それらは、つうんと酸っぱい不安定な匂いをまとい、少女たちの間だけをひらひらとゆきかう。繋がり合うことには無頓着をよそおい、意思の疎通への希求が希薄なようで、本当は何処かにたどり着きたい言葉たち…。心細げな、そのかぎろい。  
 それらはまるで、往復する小さな暴力のよう。或いは、底知れない井戸に放り込まれて、心許なく落下していく礫のよう。人知れずどこかに降り積もって、さびしそうにうずくまっていたりするのかな…。 

 『リトル・ガールズ』、エリザベス・ボウエンを読みました。


〔 「あら、私も愉しく過ごしたわ――まったく同感。私の人生は、という意味で。つまり、色々あるのよ。でも、人って、何がないから寂しいのか、それを知らなくても寂しいのよ。寂しい――でしょう?――何がないから寂しいのか知らなくても?」 〕 242頁

 『エヴァ・トラウト』にひき続き、とても好きだった。これだけのお膳立てがありながら、決して劇的な展開へと雪崩れ込んでいかないところがボウエンらしいのかも知れない。  

 ただがむしゃらに無鉄砲に、自分の居場所を築きあげようとしていた元少女の、老いゆく年月に横たわるありふれた孤独とか。自分の才能に頼んで将来を思い描いていた元少女の、ありふれた夢の挫折とか。感じることや思うことよりも、考えることだけを得手とした殺伐系元少女の、ありふれた小さな成功とか。  
 戦争で離ればなれになった3人の元少女たちが、あまりにも長すぎるお互いの不在の末、とうとう再会を果たしたとき、遠い過去にほうむり去られたはずの約束が呼び覚ましたものとは…。 
 古く錆び付いた歯車が、ぎしりと軋みながら回り始める。記憶の底から浮かび上がる、美しくも哀しい謎たちと共に。そしていつしかそれは、3人が生きてきたそれぞれの道と尽きせぬ思いとを、優しく繋いでまとめ上げる為の旋律を流し始めた。…の、だろうか?  

 断続的なコミュニケーション、不器用で歪な友情。狎れ合いなど薬にもしたくないと言わんばかりな、気難しい女友達が二人もいたなら、少女の世界は無敵なのではないかしらん…なんて、私などは思ってしまうが。 
 でも、特に大好きな相手ではなかったはずなのに、いつの間にかいつも一緒にいたという女の子同士の感覚はとても良くわかる。偶々家が近かったから、教室で隣同士に座っていたから、出席番号が近かったから…。そんな“偶々”から何となく友達になって、しっくりこない相手への苛立ちや疎ましさを押し隠し合いながら、なぜか気がつくと同じ時間をいつまでも過ごしていた幼き日々の女友達。そこに大切なものがあったこと、かけがえのない時間が流れていたことに、ずーっと後になるまで知る由もない。 
 …と、そんなことを時折思わずにはいられなかったので、ほろりほろりと切なくなった。それで、ラストではただただため息。 

 作品解題の中でも触れられていたが、大人の禁断の愛の場に知らずして少女が居合わせる場面は、胸が締め付けられるように哀しく美しかった。

 それにしても、この訳文の中に唐突にあらわれるぎこちなさは一体どうしたものか…? これではまるで、語彙の乏しいエヴァ・トラウトその人が語っているみたいだ。でもこれ、敢えてこだわって直訳にしているのかも知れない…。
 首を傾げたくなるぎくしゃくした言葉選びや、状況を把握しづらい文章の晦渋さそのものが、ボウエンの作風なのか…? そこのところが判然としない。

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