犬養道子さん、『花々と星々と』

 神戸の賑やかな街の一画にある、こぢんまりとした古本などを扱うお店。陽射しの強い夏の日、お店を探し当てた私が見付けたのは、犬養道子さんの著作だった。待っていたみたいに、ただ目の前の棚にあったのだけれど。
 なんて洒落たセンスの文庫本かしら…と手に取った次第。

 『花々と星々と』、犬養道子を読みました。
 

〔 今日ののち、どれほどの長い時があとからあとから押し寄せて来てくれるとしたところで、めぐる月や太陽や星々の無窮の前には物の数にもなりはしない。
 それなら私は物語をいまはじめよう。 〕 26頁

 読み始めてしばらくは、「この少女はなんと恵まれていることだろう。いったいどんな恩寵を受けて、この世に生まれ落ちてきたものか」と、眼を丸くするような思いで読んでいた。
 まずもちろん、その華麗なる系譜に目を瞠る。父方の祖父は犬養木堂毅(後に首相となる)であり、母方の曾祖父は明治維新の大立者・後藤象二郎である。さらに母方には、西洋医学を志した長与家の流れも汲まれている。
 が、そのような出生の持つ華やかさが、当の本人にとって幸なのか不幸なのか、私にはわからない。私がこの少女に対して、この上なく恵まれていると感じたこと、それは…。
 仲睦まじく愛情深く、何事をも型に嵌めようとしない自由奔放なやり方で、見守り育んでくれる優しい両親の存在に常に包まれていたこと。そして、そんな両親と親しく付き合いながら、その娘の道ちゃんを子ども扱いするでなく対等に接し、自己を、真の自分らしさを尊ぶ白樺の伸びやかな精神を、少しずつ教えてくれた大人たちからの豊かな感化。健やかな若木が水をもらいながら背を伸ばしていく如く、矯められることのない土壌で、何処までも伸びやかに成長していけることの素晴らしさを思った時、「この少女はなんと恵まれていることだろう」と、感じ入らずにはいられなかった。たとえこの後どんなことが待ち受けていたとしても、常に支えてくれる糧となるものを、少女は日々知らずして、周りから与えられていたのではなかろうか…と。

 白樺の作家であった父・犬養健の自宅には、武者(小路実篤)さんや芥川さんが立ち寄る。岸田(劉生)さんはパパと相撲をとるし、空気のような木ノケンさんはいつも家にいて、絵を見てくれた。苦しみ抜いた漱石とは違い、自我を称えた白樺の人々。高等遊民でいられるだけの背後があって、世間には嫌味とも映る鷹揚さで、「お金がない、お金がない」と、歌うように繰り返した人たちとの自由な日々。
 そんな、耀くようなノンシャランな、その時代のきな臭さからそこだけが見逃されていたかのような彼らの生活も、いつかは終わらせねばならない時がくるのだけれど。

 白樺の人々との交流を描く一方で、身内の女性たちが印象的に描かれていることも忘れがたい。そしてその筆頭は、やはり母親の仲子である。 
 いつもころころとよく笑い、普通の人がこわがる血やダンビラをこわがらない道ちゃんのママが、あやしげな有象無象に向かって啖呵を切る場面は、胸がすくほどに気持ちが良い。だが、とても皮肉なことに、友人であった石井(桃子)さんに「惜しいこと」と言わしめるほどの、仲子の優れた資質や科学者の血は、最悪の状況下においてめざましく発揮されることになる。ころころと笑い転げる姿の似合っていたママの、険しく厳しい数奇な運命の幕開けを決定づけるように…。

 コントラストの鮮やかな、二人のお祖母ちゃま。彼女たちのことについて割かれている箇所も、とても好きだった。
 かつては薔薇や牡丹にたとえられた、絶世の美人だった母方の祖母・延子は、“困る”とはいったいどういうことなのかもよくわからない、おひい様の後家さんだった。でも、全てを失う嵐が通ったあとでさえ、なお誇らしげに自分自身を変えることなく、維新の血をひく娘であることを示し続けて生きた。 
 一方父方の祖母・千代は、抜きん出た経営者素質を持った、色街出身の女傑であった。特にこの、締り屋なお祖母ちゃまのエピソード(『セドドイド』)には、時代を一つ二つ先取りした合理性に、くくくっ…と笑いつつも感心させられた。

 後に加筆された最後の二章のことは、何も言えない。誰にとっても辛い時代だったとは思うのだが、本当にこんなことが、自分にとってかけがえのない、大切な人たちの身に降りかかるなんて…。考えられない。

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