W・G・ゼーバルト、『アウステルリッツ』

 読書会の課題本。読めてよかったなぁ…と、素直に思った作品。『アウステルリッツ』の感想を少しばかり。

 “みずからの咎で無知を通す”――。おのれ自身の出自という謎が常に傍らにあるのを充分にわかっていながら、みずからに枷を嵌めて目を逸らし続けずにはいられなかったほどの過去の重みとは一体何だったのか…。何も思い出せないままに、アウステルリッツの意識に重く圧しかかり胸塞ぐ孤独を強いてきたものの正体とは。
 60年代の後半、イギリスからベルギーへの旅をくり返していた〈私〉は、アントワープ中央駅の待合室でアウステルリッツに出会う。そこで、後にアウステルリッツが〈アントワープの対話〉と呼びならわした、近代建築史をめぐる会話があり、彼の驚くべき専門知識に〈私〉はひたすら耳を傾ける。そこから二人の幾度とない出会いが、繰り返されることとなるのであった。
 月並みな言葉になってしまうけれど、たとえそれがどんなに辛く酷い過去であったとしても、そこで何があったのかを正しく知ろうとせず、おのれ自身の本当の姿と向かい合うことから逃げ続けている限り、人は前に進めないものなのだろうな…としみじみ思った。そしてまた、そんな風に人の人生を狂わせたり大切な時間を止めてしまう戦争の恐ろしさのことも思ったのだった。だから、アウステルリッツが、忘却のはてへ失ってしまったはずの自分の幼年期の姿を写真で見せられて、茫然と言葉を失ってしまうくだりは本当に胸が詰まった。
 
 表紙に選ばれた一枚と言い、物語の要所要所で指し示すように置かれる写真の存在がとても印象深かった。ひとたび目を止めてしまったらもう、文章の内容と分かちがたく結ぼれながら胸に浸透していってしまうような感覚があった。そしてそれがこの作品の、いわく言い難い不思議な魅力となっている。
 わかりやすい特徴と言えばもう一つ、改行もなく延々と連なっていく独特な語りにもとてもひきこまれた。特に、アウステルリッツが〈私〉に向かって縷々語り続けた話の内容が物語の大半を占めるわけだが、元来が雄弁ではなさそうなアウステルリッツが一人の聴き手を得て、兎に角誰かに聴いて欲しいのだ…という感じでこぼれ出す言葉を繋げていく様子は、静かに胸に沁みてくる。それでいて執拗に繰り返される、“……とアウステルリッツは語った”の一言で、語りの中へのめりこみそうになったところを不意に押し戻される、その距離感も面白いと思った。少し離れた場所で、ただ静かに耳を傾けているだけでいいんだなぁ…と、凝らしていた息がふっと楽になるようで。

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