W・G・ゼーバルト、『目眩まし』

 ゼーバルトを読むのは2冊目。『目眩まし』の感想を少しばかり。

 “おかしなことに私の脳裡に〈休暇(ウアラウプ)〉という言葉が浮かんだ。休暇の日、休暇日和。休暇の旅にでる。休暇中。休暇。一生涯、いつまでも。” 36頁

 大変大変、好きな作品である。
 薄灰色の雲が満遍なく垂れこめ、もやもやと世界中を覆っている…とでも言いたい、沈んだ色合いの作風が、どうしてこんなにすうっと胸の内へ馴染んでくるのだろう。そう思うと何やら儚くて、もの哀しい気持ちすらする。でも、ここにある寂寥が私は好きだ。滔々とだが取りとめなく、たどり着くべく場所もなく、書き留められる傍から言葉たちがまとう、淋しさの気配がとてもよかった。カフカの短篇「狩人グラフス」での狩人の不気味さが、暗い陰りを落としているのも堪らない。

 この一冊には、4つの物語が収められていた。一見関係のない4篇のようで、それらは少しずつ重なり合って漠とした広がりを生み出している。そして、カフカの作品からの引用が散りばめられている(先に読んでおいた「狩人グラフス」しかはっきりしなかったが…)。
 一話目の「ベール あるいは愛の面妖なことども」ではスタンダールが、三話目の「ドクター・Kのリーヴァ湯治旅」ではカフカが姿を現わし、各々の道筋をとって旅をする。そしてその話を綴っているのが、常に旅先にあって漂泊を続ける作家のゼーバルトである。したがって、二話「異国へ」と四話「帰郷」は、作家自身の旅をまとめた手記として読める。ただ、ふとしたことから目眩を起こしたり、連想するイメージに捉われやすい語り手は、時折襲ってくる幻覚までをもそのまま描き写しているので、そこはかとない不安に満ちて奇妙な、現実と幻想が境目を失くしたような文章になっている。その揺らぎがまたとてもよいのは、言うまでもない。

 たった一つ、誰にとっても、これだけは確かに自分一人のものだ…と、心から信じたい大切なものが、記憶や思い出であるとして、なのにそれらがいつしか毀れていってしまうことに対して、人は何ら打つ手を持たない。忘却は時に救いでもあるけれど、己の過去が自分の中でどんどんあやふやになっていくことに、空怖ろしさを感じてしまうことだってある。全てが嘘まやかしだったら…という、心許なさ。信用ならなさ。ゼーバルトの文章は、そんな心の隙間に沁みてくる。目眩ましへ、いざなおうと。
 …そしてラストはぞうっとした。

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