ミロラド・パヴィチ、『ハザール事典』

 以前から読みたかった作品。『ハザール事典 ――夢の狩人たちの物語』の感想を少しばかり。

 “王女は鳥たちに告げた――「行きて汝らの詩を仲間に教えよ、さもなくば早晩、詩はだれからも忘れられよう……」と。鸚鵡の群れは大空に舞いあがり、かなた黒海を縁どる森へと飛び、そこで仲間の鳥に詩を口伝えに教え、教わった鳥は新たに別の鳥に伝えた。” 224頁 

 素晴らしく、すこぶる好みな物語だった。美しくて、やり過ぎで、大好きだ。とりわけ、他人の夢を読みとり、その夢に住み、夢から夢へと渡り歩く〈夢の狩人〉という設定が、もう堪らない。そして綺羅にめくるめく奇想と幻想…かと思えば、ユーラシアの草原を吹き抜ける風の芳しさを思わせる、えも言われぬ抒情。張りめぐらされた糸と糸とが、絡み結ぼれあって編みあげた蜘蛛の巣の如き見事な模様に、何もかもが絡め捕られていくのを、目を丸くして見惚れているような按配だった。その様を隅々まで堪能したくて、ややもすれば前のめりになりながら、どっぶり浸っていた。
 赤緑黄と3本の栞を付け、事典という体裁を調え、そのまえがきの中では、どの頁から始めどのような順番で読み進めてもかまわない…などと明示しているが、実は、構成の妙と緻密な仕掛けに溢れた、歴とした小説である。ちなみに私は、優れた〈夢の狩人〉であり詩を能くし、『ハザール辞書』を編纂したハザールの王女アテーの項を、赤→緑→黄と読み繋げるところから、手を付けてみた。

 ハザールとは、黒海より拡がる草原の地域を圧し、王国を築いた半遊牧の民のこと。だが、十世紀には滅ぼされ、それっきり歴史の舞台から姿を消してしまった幻の民族である…そうだ。面白いのは、謎の古代信仰から改宗しようとした君主(カガン)が、イスラム教の行者、ユダヤ教のラビ、キリスト教の修道僧…と三人の知恵者を各地から呼び集め、もっとも信をおける者の宗教を選ぼうとした…ということである。ここから、後に〈ハザール論争〉と呼ばれる論議が始まり、それは未だに決着を見ていない…そうだ。
 この事典の内容は、そのハザール問題についての、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教関係資料の三つに分けられている。例えば先にあげた王女アテーの項は、各書にまたがって収録されている。また、論争勃発の当事者である三人の知恵者の他にも、まるで呼応しあうような項目の組み合わせがだんだん見えてくる。その組み合わせの中で奇妙な繋がりが生じているのが、徐々に明らかにされていく展開の面白さと言ったら…! もちろん、不思議な結び目はそれだけに留まらず、時空を超えて縦に横にと周到に仕掛けられているので、一体どれだけちゃんと見付けられたか…と心許なくなってしまうほどだ。

 ハザール王国の歴史と地図を体中に刺青にされた使者は、〈生きた百科事典〉として重宝がられている。悪魔に性を剥奪されたアテー姫は、代償として永生を生きる定め。その情人の代理にされた男たちの運命。先が二本に割れたフォーク。鼻の孔が一つしかない下っ端のサタン。相手の正体も知らぬまま、お互いを夢見ていた男たちの邂逅。人生の一日を閉じ込めた卵。などなどなど…。
 薄気味の悪いグロテスクな法螺話が続くかと思うと、宗教問答があり、引き裂かれる恋人たちの悲恋もあり、如何にしてハザール事典が一冊に纏め上げられることになったのか…という部分は謎解きのようでもあり、最後まで驚きつつ至福の時間を楽しんだ。何が好きかと言って、この作家のやり過ぎ感が、たまらなく私のツボだ。…と、つくづく思った。
 ←17行分だけ文章が違う、男性版。 

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