アンドレイ・マキーヌ、『フランスの遺言書』

 『フランスの遺言書』の感想を少しばかり。

 “そうか、これだったのか、ぼくらのアトランティスの鍵は! 言語という、目に見えないのにどこにでもあり、ぼくらが探検しつつあった世界の隅々にまで、その音のエッセンスで到達する、この神秘的な物質。” 45頁
 
 素晴らしかった。少年の目に映るもの全て、そして少年の心の眼差しが見ていた憧れの国の想像の中の眺め。それらを語る言葉たちが、あんまり真っ直ぐ胸に飛び込んでくるので、その鮮やかさに捕まって幾度となく立ち止まった。まるで文章の端々が、きらきらと光っているようにすら見えてくる。そんな瑞々しさに溢れた少年の声と、祖母への慕わしさと懐かしさを伝えてくる追想の声とが、寄せては返す波のように優しく交互に響いて、いつまでも耳底から離れない。

 少年の頃の語り手が、祖母と過ごした幾つもの夏の夕べ。匂い立つそよ風が行き渡るロシアの草原(ステップ)と、バルコニーで耳を傾けた祖母のお話の中のフランス=アトランティス。いつの間にか二重になっていた人生によって、かつての少年がたどり着くべくしてたどり着いた場所とは…。
 ごく幼いころから“ぼく”は、フランス人である祖母シャルロットの元で夏の休暇を過ごしていた。そしてアパートの狭いバルコニーで、彼女が語り聞かせてくれるフランスの物語に魅了されていた。洪水に覆われたパリの沈黙、ロシアの皇帝夫妻のための晩餐会のメニュー、大統領の恋、ダンディなマルセル・プルースト、お気に入りのビストロ…。そうしていつしか少年は、フランスの精神(エスプリ)に思いを巡らすようになる。ロシアでは決して見出すことのない、静謐さや感傷。謎めいた「フランスの眼差し」のこと。シャルロットのフランス語を、方言の一つみたいに聞いていた“ぼく”が、二つの言語の狭間で両者の違いに気付き始める。祖母によってフランスを接ぎ木されたロシアの少年は、今いる場所さえ忘れさせるほどの、物語の素晴らしさを知る。
 だが、シャルロットのお話には、曖昧に避けられている場所があったのだ。やがて“ぼく”はそれを知ってしまう。祖母を出し抜こうとして見てしまったトランクの中にあった、ニコライとアレクサンドラの物語の結末や、他の大人たちが無遠慮に喋った祖母の苛酷な人生。それから彼はまた成長するにつれ、自分も紛れもないロシア人であると、感じるようにもなる。仮借なく不条理なロシアが、己の中で目覚めつつある…と。フランスの洗練は無意味に思えて、フランスの接ぎ木が彼を苦しめる。

 物語と言語の関係について、シャルロットの美しさについて、フランスについてロシアについて、愛と性について、少年が繰り返す、その都度驚きに満ちた幾つもの発見のこと。心をふるわした感動や慄き、そして憤り。それらを伝えようとして連ねられた言葉たちが、素直な魂のきらめきそのものに見える瞬間があって、時折眩しいような心持ちになった。シャルロットが孫である少年に伝え、教えようとした大切なことが全部、彼の魂の内で明るく輝いている所為だと思う。
 終盤、押し寄せるように高まる祖母への慕わしさと懐かしさに、切なくて胸が詰まった。でも、温かさに包まれる読後感だった。フランス人のままロシアで生き抜いたシャルロットのことが、私は本当に好き。

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