マルセル・ブリヨン、『幻影の城館』

 戻りたくなくなる世界。甘露のような作品で、とてもよかった。『幻影の城館』の感想を少しばかり。

 夢から夢へ――。霧の向こうに姿をあらわす、そこは〈幻影の城館〉。
 あこがれて伸ばした指先から、するりすり抜け逃げていく靄の中。幻の蝶がよすがに残した鱗粉の煌めきだけが、手のひらに貼り付いていつまでも光っているみたいな、そんな。神秘に包まれた美しい庭園と、その林苑を彷徨う麗しいけれどもどこか虚ろな城館の住人たち。心惹かれてやまない世界がすぐそこにあるのに、どこまでも追えばどこまでも逃げていってしまいそうなつれなさが、何とも甘く切ない読み心地だった。儚い幻に、儚いと知りつつ魅入られていくのだ。

 城壁に沿って歩いていたら城門に行き当たり、おとなしく叩いたのに扉がずれて動いた。と、随分と無造作な感じで〈わたし〉は城内に入ってしまうのだが、なかなか城館には行かないところが面白く興味深かった。農場で働いている母娘の家に身を寄せた主人公は、まずは林苑の縁辺の彫像と出会い、それから日を置いてさらに林苑の奥へと踏み入り、城館の人々にも近付いてみる…と言った按配で、ぐるりから少しずつ少しずつ城館へ近付いて行くのである。ゆるやかないざないに応じるが如く。
 城館の住人たちの綾なす物語に〈わたし〉の入り込む隙間はなく、彼は単なる部外者であり客人に過ぎないのだけれど、星空の下で魔法のような音楽を聴いたり胸を躍らせて城館をさ迷ったり、仮装の祭りに出かけていったり…と、〈わたし〉は〈幻影の城館〉を堪能する。たとえそこにある翳りに気が付いていても、花火の偽りを知っていても、美しい情景から目が離せない。呑み干し倦むまでは。
 先日読んだ『砂の都』にもあった〈品物〉についての独特な考え方が、やっぱりとても好きだった。あと、庭園監督の「人間が木々に自分の悩みを感染させ、つらい思いをうつしている」という言葉とか、なるほど…と感じるものがあった。美しい幻想の物語を隅々まで楽しみつつ、底を流れる豊かな思惟に浸かってしばし憩う。〈わたし〉のイニシエーションの旅、私には安息の一冊でもあった。
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