マルセル・ブリヨン、『旅の冒険』

 長篇がすこぶるよかったので、嬉々として飛びついた。『旅の冒険』の感想を少しばかり。

 素晴らしい読み応えの、短・中篇集である。耳朶をふるわす幻聴に満ちあふれ“ピラネージふうの幻想的様相”を見せつける、底知れぬ夜の怖さとその色合いにただただ魅入られた。物言わぬ立像たちが見下ろす迷宮の中を、登場人物たちと一緒になってさ迷っているような心地を味わいながら、隅々まで堪能した一冊。

 とりわけ私の好きだった「深更の途中下車地」は、俄かに旅の目的地のことがどうでもよくなってしまった“わたし”が、放浪の誘惑にかられて降り立った駅から続く町で、不可思議な一夜を過ごす話である。旅人である“わたし”の前に現れたのは、並び立つ家々には建物の正面しかなく、正面の背後の壁には何もない、全ての窓は空虚な夜の闇に向かった穴に過ぎない…という信じがたい町並みだったのである。やがて地下のホテルへと案内された“わたし”は、気晴らしの散歩に出かけ、人形を抱えて口を利かない弱々しい女の子と、もう一人の散歩者に出会う。男が語りだす町の来歴、彼が目にすることとなる女の子と人形の変容…。ぐんにゃりとした夢のような形を残したままで、物語は静かに幕を閉じてしまう。

 そして表題作の「旅の冒険」は、溶岩のねばつく泥や噴煙を吹きだす火口に取り巻かれた一人の旅人が、途方に暮れたように佇んでいるところへ、騎馬の男がやってくる…という場面から始まる。パンとぶどう酒を差しだされながら、旅人は何故か不意に不吉なことを考えて断わってしまう。そして次に出会ったジプシーの馬車に便乗することで、やっと火山の煙から逃れた旅人は、ジプシーの女が語る〈死に神の公子〉の物語に耳を傾けるのだった…。
 ある旅籠屋の二人の客が、曰く“焼け焦げた男”と“地震の男”で、彼らの話の内容がとても印象的だった。特に地震の男が津波について語るくだりは忘れがたい。また、何故この物語にあえてこのタイトルなのか…?と考えていると、それもまたぞくりとする。

 怖くて美しくて哀しくて、時に不条理に胸を衝かれる。そして作風の根幹にある品位こそが、何よりも素敵だ。だからどんな話でも安心して、しばし身を委ねていられるのかも知れない。
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