ら族の歳時記

「道が分かれていても人は幸せになる道を選ぶ能力がある。」
能力を信じ、心の安らぎの場を求めて、一歩一歩。

訃報

2013-10-15 21:47:43 | Weblog
新聞の訃報欄に
大学時代の指導教官の訃報を見つける。

学生時代、他の教官が
「大学教授は全員、新聞の訃報欄に出る」といっていたが、
時代は替わり、大学の乱立で教授も増えて
業績を残した人しか出られなくなったようだ。

訃報が多かったり、社会面の記事が多かったりすると
新聞社の判断で出なかったり。
夕刊にでてしまうと朝刊には出られなかったり。

必ずしも目に入るものではなくなったようだ。



訃報で先生の年齢を初めて知る。
また、自宅も転居されていたことを知る。

お花を贈ろうとかと考えたけれど
正確な住所がわからないため断念する。



私たちは学科の一期生。
客寄せパンダ的に著名な先生をスカウトしてきた。
スカウトといっても木曜日の午後から土曜日までの
週末しかいなかった。
週の初めは関東、関西の大学で仕事をしていた。

歴代こういうやり方で学科ができたときに教授陣を集め、
何人かはこのまま大学に専任で残ってきたようだけれど、
我が指導教官は、保守的な大学のやり方をひたすら批判した。
講義にきたのに休講にさせられて、
近隣の高校へ大学のPRに連れて行かれたり、
講演をさせられたりした。

当時、私の通っていた大学は
図書館が1時時限が始まらないと開かず、
4時限目が終わる前にしまっていた。
勉強をさせる風土ができていないと
他にもいろいろ抗議した。

けれど、大学のやり方は変わる気配はなくて、
指導教官は私たちが四回生になると
他の新設の大学の教授になった。
そして私たちが卒業とともに退職すると宣言した。
(その新設の大学では名誉教授になるまで勤められた)


卒業後、指導教官は大学の同窓会に来ることもなかった。
ゼミや学科の同窓会については、
リーダーシップのとれて面倒見の良い人がいないため
開催は皆無に至っている。



そして卒業後、指導教官に一度も会うこともなく
手紙のやり取りをすることもなく終わった。



指導教官は褒めて伸ばしてくれる人だった。
叱られたことは一度もなかった。
(あきられたことはある)

病気でめちゃくちゃにマイナス思考の私を
いつも褒めてくれた。


指導教官の褒めてくれたところを長所として
大切にしていたら、
私の人生も変わったかも。。


いつから先生のことを忘れてしまっていたんだろう。


先生、いまから遅いけれど
先生に褒めたられたことを大切にして
自信をもって伸ばしていくね。
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