退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『老人力の更新』とわが国にはなぜかないドラマあるいは『宙ぶらりん』しか生きられないこと」について

2020-05-19 02:11:41 | Weblog
くもり。夜になって降り始める。

仕事場と中継駅を2往復する。

「早起き」した割りには眠気が来ず。
ここでも「老人力」を更新中なのか。

久方ぶりにドトールで過ごす。
閉まっていると思っていたら開いていた次第。

「フリンジ シーズン1」全20話を今頃ようやく観終わる。

なぜアマゾン・プライムには吹替版しかないのかは不思議だけれど。
シーズン2も少しずつ観ていくつもり。

なるほど「もうひとつの世界」を設定してしまえば物語は広がるか。
「あやしい科学」をあれこれ採り上げて見せるあたりがポイント。

繰り返すが監督・脚本家を複数使った「科学」がテーマのドラマがわが国にはなく。
本気で作れば絶対流行るというのに。

「スタートレック」を信じている男の登場があり最後にはレナード・ニモイも登場。
本棚にはアーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」があったり。

そうした「遊び」もあるのがなかなか。
昔読んだSFのあれこれが懐かしい次第。

さて。

コロナウィルスの「未知ぶり」はこうしたドラマもしくは小説に似ていて。
「事実は小説より奇なり」が本物に。

「先がわからない現実」があらゆる場所で明らかに(もともとそうなのだけれど)。
「信頼できる情報源」がどこにあるのかを知った上で立ち向かいたいもの。

その「信頼性」を判断する自分が「正しい」のかどうかを疑いながら。
もはや「宙ぶらりん」を生きるしかないということ。

何でもかんでも「白黒付けられる」時代の終わり。
それでもあなたは「他人まかせ」を生きるのかどうか。

いたずらに「悪玉」を見つけるカタルシスを得るだけ?
あるいはどこかにあるはずだと思っている「正しさ」を信じればいいのか。
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