退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

枢軸国のマザコン度あるいはジャーナリズムについて

2010-12-22 02:53:25 | Weblog
晴れのちくもり。夜になって降る。

シオランはそのままにして
ノルベルト・フライ、ヨハネス・シュミッツ「ヒトラー独裁下のジャーナリストたち」を途中まで読む。

ジャーナリストたちの固有名詞の羅列にやや退屈を覚えるのは
ドイツの歴史に対するこちらの知識があまりにも乏しいせいだとしよう。

今のところの感想としては
ナチスがジャーナリズムを「飼い馴らすメカニズム」をもう少し明確にしてもらいたいといった感じ。

「第11章 第三帝国のジャーナリスト ―八人の群像― 」までは読み進めていないので
おそらくはそのあたりで詳細がわかりそうな予想はしているのだけれど。

国外でジャーナリズムのダメさに憤慨するトーマス・マンと
国内で「検閲」を回避するために「行間」を読ませようとするジャーナリストたちとがいた模様。

「週刊ポスト」で上杉隆が読売新聞のドン「ナベツネ」こと渡辺恒雄を批判している。

ジャーナリストはそもそも政治とは一定の距離を保つものであって
彼のように自分がプレイヤーになるのは「世界の非常識」だと。

「クロスオーナーシップ=特定資本がテレビ・新聞などを同時に保有すること」は危険だという問題も
同じく読売新聞の正力松太郎のせいでわが国では「当然」のことにようになっている。

イタリアでは同じように「メディア王」ベルルスコーニが首相をやっていて
こんなところで「日独伊三国同盟」の再来か。

いずれも第二次大戦の「枢軸国」で
「遅れてきた国」は同じような問題を抱えるものかとあらためて思う。

ただしそうした「遅れ」を感じさせた「連合国」が
文句なしに「いいもの」でないことも明らかで。

男が女を「良妻賢母」にしたがる傾向は
どうやら共通しているように思えるが如何。
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