脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Let It Go!

2018-04-10 | Weblog

かなり昔あるボクサーがこういう冗談を言ってきた、それはおもしろおかしく言ってやろうと思って言った事だと思うのだが、彼が言うにはアフリカ人は時間にルーズで遅れてくるそうだ、だからいつも30分ぐらい遅れていくとちょうど彼、彼女が来るころなので、約束をした時は30分ぐらい遅れて行ったほうがいいと、たぶん彼はわるい人間ではないのだが、詭弁で、すぐに物事をおもしろおかしくしようとするタイプである。しかし彼の言葉はでたらめ、わるいがこういう話は差別的で程度がひくい。まずアフリカ人ってどこの国の人?アフリカに国はいくつあるのか知っているのだろうか??日本人はアフリカと言う国を軽く見ているのか一つにして見ているが、しかしアフリカと言う国はいくつもあって、それぞれ異なった文化や宗教が存在する。さらに時間にルーズと言うのもどうだろうか?アフリカと言うのは厳格なイスラム教徒も多く、保守的であり家父長制の多い国が多い、そういう文化を持つ国が時間にルーズだとは思わない、ハワイであればハワイタイムというのがあるが、しかしアフリカタイムなんていうのは聞いたこともない。こう言うことは軽々しく言うべきことではない。かわいそうだが、知識があさいととんだ大恥をこく、たぶん同じようなレヴェルの人間としか付き合ってこなかったから、こういうことを言ってもわははははと受けていたのであろう。しかしこういう話は多少語学ができて、客観的に物事を見る訓練ができている人間にはあきらかにでたらめであることはわかる。この人種差別的な発言は聞く人が聞けば不快感さえもおぼえるものであるが、レヴェルがひくいと何も考えないでただ笑っているのだが、意外とこういうしょむないと言うか、場合によっては不快なことが笑いになっているからおそろしいものである。私が日本のお笑いがきらいなのは人を陥れたり、いじめたりするからだ。そういう笑いは決して本当の意味で人を幸せにすることはできないと思う。

これは私が好きな話で大学時代に聞いた話。ある女性仮にエイミーとしておくが、彼女は生まれてすぐに施設にあずけられたらしく、あずけられた時には名前がなかったので、その施設でエイミーと名づけられたそうである。彼女は親から名前をもらえなかったことが彼女のトラウマになっていた。それはある意味彼女を消極的にさせていた何かであったようだ。やがて成人になり彼女は大学に入学、かなり年をとってからでの入学ではあったが非常に楽しい学生生活を送り、そこで年下の男性と知り合い恋におちる。優しい人とたくさんの友達にかこまれての楽しい学園生活であったが、しかし周りが幸せであればあるほど自分の過去がひっかかる。そこで思い切ってその男性に自分が施設で育って親から名前をもらわなかった、だから名前がないと言う苦しみを打ち明けたそうだ。するとその男性はこう言った「ケンチャナヨ。神様にも名前はないんだよ。」二人は同じ教会に行っていたのだが、聖書の神には名前がない、十戒の戒めにも神が人間に対して自分の名前を持つな、名前をつけるなと言う厳しい戒めがあるのだが、彼はその神の厳しい戒めを逆手にとってジョークにしたのだ。そしてそれを聞いた彼女も笑ったそうだが、二人は笑い飛ばして過去のいやな思いでとおさらばしたのだ。私はユーモアには力があると信じている。人間が人間のことを思いやり知性を持って伝えるユーモアは本当にその人を生かす言葉であると信じているが、ユーモアがその人を気づかう気持ちと知性が感じられればその人は勇気づけられるものだ。

 





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Go down to the riverではなくGo up to the river

2018-04-09 | Weblog

80年代は名曲が多いと言われているが、このリバーも名曲のひとつらしい。でも聴いててこの歌詞は、昔俺のまわりにいた奴らのことをそのまま歌った歌じゃないかと不快になった歌だ。私は教育も受けているし、言葉もきちんと話せるのでまわりは非常に育ちがいいと勘違いしている。親父が外国人だと言っても企業の重役クラスで日本に来ているとか、大学関係でというようなすごくいいように勘違いしてくれているが、しかし今だから言えるがうちの家系はシリャンミン、北からにげてきた人たちで、故郷がない。当時は日本でも向こうでも差別される人たちだ。当時私のまわりの環境はよくなかったし、私には言えないことがたくさんあった。たぶんその言えないことをそういう仲間に聞いてもらって傷口をなめあうこともできるのだろうが、しかしそういう仲間を求めなかったし、そんなことはしなかった。この歌の歌詞でgo down to the riverと歌っているが、俺の人生はくだっちゃいかん、go up to the riverと言った感じだろうか、たぶんこのまわりにいるような奴らと同じ生き方をしたら自分もこいつらと同じようになる。そう考えてなるべくこいつらとは違う環境を求めてまじめに生きた。まともに教育を受けて、いい人たちとつきあって自分の環境をかえる道を選んだ。よくアホな格闘家は自分がどれだけすさんでいたかということを得意げに話し、そして自分はそこから這い上がってきた見たいな話を針小棒大に語るが、しかしそういう発想はウジ虫がハエになった程度で根本的にはかわらないだろう。

根本的に大事なことは自分の環境をかえること、なるべく多くの正しい人たちと出会ってそこで影響をうけることだ。特に教養のある人と会話したり、その人たちの言葉づかいや習慣を学んで、世の中の正しさや一般的にいい生活とはどういうものかということをよく学ぶことである。私は多くの不良少年たちの面倒を頼まれてみたことがあるが、彼ら彼女らと話してわかったことは、そういう子供たちに性根のくさった奴はそういないということだ。問題なのは彼ら彼女らの性根ではなく、環境や習慣の問題だ。環境がわるくて生活習慣がわるいからすさんでくる。そこをかえればかわれるのだが、しかし仲間がいるからそれができない。本当に更生させたかったら仲間からはなれて環境と生活習慣をかえること、そこからはなれて正しい人と話したり、広い社会でいろいろなことを経験することで、教育や教養が必要だということがわかるはずだ。顔はきれいが教養もない、品格にかける、言葉はわるいがそういうb〇tchと傷口をなめあって、お互いがかわいそうだ放っておけないと情で結婚する。でもそんな結婚生活は先が見えている。その人のことを本当に心から尊敬できるから結婚するのだ。お互いが尊敬できるからこそ、相手を大事にできるし、心から信頼し信頼できるからいろいろなことを乗り越えていける。そして子供が生まれたらその尊敬できる人の子供でもあるから、心からその子を愛せるのだと思う。学問を学んで教養をつんでいい環境に身をおくというのは、間違ったものの見方を正しく、いい方向にかえられて行くということだ。昔こんな自分は将来この先一体どこに行きつくのだろうかと思っていた。まわりを見たらまともではない、そんな中で自分はそいつらと同じ姿を想像していたかも知れない。でも自分はこの歌のように川を下るのはなく、流れに逆らって上がって行った。上がった世界は自分とは違った別世界であった。環境をかえるというのは見方を変えるということだ。そしてその見方をかえるためには教養をつむことが最も重要だ。


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murderballって何かわかる?

2018-04-07 | Weblog

ドッジボールはいじめに近いスポーツだと、米国ではこれを禁止している学校もあるらしい。理由は運動能力の低い子どもが感じる恐怖心や、悪意のある児童、生徒が普段から気に入らない友達にボールを当てるということがあるのではないかということがだが、確かに考えたらそう言えるのだが、私もどちらかというとドッジボールにはあまりいいイメージはない。

それは子供会のドッジボール大会での話であるが、その休み時間に子供たちがおにごっこのような感じで楽しそうに走り回っている。そこに一人の子供がいた、彼はその群れでいっしょに走り回っているのだが、しかし彼はタッチされない。みんなわいわいと他の子にタッチして走り舞っているのだが、彼の存在に気づかないのかほとんど素通り状態である。それでも彼はその群れの中で、満足そうに走っている。時々誰かが一言話しかければ楽しそうに笑うが、どうやら彼はその群れでは透明の存在である。その時二人の子供の会話が耳に入った。「次の試合の組、俺と誰々と、そして何々っていう奴」「何々って誰」その会話を聞いて、あれ「何々君」はあの子だろ。自分たちと同じチームだろ。なのに名前も知らないのか?と少しさびしい気持ちになったが、しかし残酷ではあるが子供の世界はしょせんこういうものかも知れない。

時々こういう子供を見かけるのだが、人の輪に入れない子供は運動神経のわるい子や要領のわるい子はもちろんのこと、個性が強いとか、IQが極めて高いと言うような子供もいる。私自身も生まれながらに人との違いを感じて育ったので、どちらかというと透明の存在に近かったのだろう。私はこのままではその子があまりにもかわいそうなので、そのドッジボールの練習のことである提案をした。それはこのチームの子供たちが試合になると、同じ人間ばかりがボールを回しているように見えたからであり、もう少しまわりにパスをまわすように、練習の時も実際にそのことを実践させて見てはどうかということである。たぶんそんなことをしても子供のことだから、にわかにそういうことが実践できるはずはない、しかし実際みんなにパスを回すと言うことを心がけることで、自分よりも体力のおとったものや、低学年の子供にパスをするということに気づく子供がひとりでもいればいいと思ったからである。


透明な存在は誰かが気づかなくては透明である。しかし誰か一人でも彼、彼女の存在に気づくものがいれば、その彼彼女は透明ではない、彼、彼女はちゃんとそこに存在するのである。誰かがひとりの存在に気づくということは、まず多様性と言うものを認めることからはじまると思っている。日本人は単一民族でみんな同じと言うことを強調する民族なので、その多様性を認めることは難しいことであるが、しかしその違いと言うものを理解し、認めていかなくてはならないと思っている。私が英語にこだわるのは、共通語をおぼえたり、他の文化にふれることで、自分とは違う人間がたくさん存在するのだ、自分たちが生きている世界がすべてではないということを実感してほしいからである。我々の世界もドッジボールのようにパスを回しあわなくてはならない。パスを回しあうということは、様々な意見を聞くことやその文化にふれることだ。そのいろいろな民族や文化や宗教そして考え方の違いを認め、多様性を認めることで、自分たちではない他の存在が見えてくるのだと思う。

個性の強い子供はIQの高い子供が多く、やたら計算がはやかったり、驚くほど暗記力にすぐれていたり、中には何か国語も話す子供もいる。こういう子供に礼儀とかバカなしきたりが通用するはずはない、言うことが大人びているので、中にはあいつは生意気だとか、子供らしくないと言うようなバカもいるが、しかし子供らしくないのが彼、彼女の個性であり、彼、彼女らは自分のこういう個性を十分に知っていると思うのだが、IQの高い子にはへんに大人ぶらずに、まともに話してやったらいい、こういう時も礼儀とか、上下関係など気にしていては何もできないが、とにかく同じ目線で話してやると信用されることもあるだろう。



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시끄러(シクロ)!だまっとれ

2018-04-06 | Weblog

もうすぐ女子検定が開催される。今回は4名が出場するのだが、その県で行われる試合は日本国内の中でも比較的誰でも出場しやすく、雰囲気もまあまあいいので、この大会に絞って何年か前から出場している。実は私自身も経験者でそのほとんどは海外でであるが、試合経験もあり、自慢話であるが、しょぼい試合だが2回ほど優勝した経験もある。たぶん海外で試合と言うかコンペティションを経験した者ならわかると思うが、日本は雰囲気がわるい。なぜあそこまでぴりぴりとした雰囲気を出さなくてはいけないのか、試合前はリラックスだといっているが、しかし全体の雰囲気が固いので正直リラックスできる雰囲気ではない。

HIの試合は楽しかった。試合も日本のように一部の人間が砂場を牛耳るガキ大将のようにいばってはいなかったし、そこには女性や子供などのギャラリーなどいて、全体がボクシングを楽しんでいると言うような感じで、会場は十分楽しめたと思う。
HIのボクシングの試合は、ちょっとした試合であれば夕方と言うか夜行われることもある。
アーミー主催でカーニバルに特設野外リングを組んで、野外ナイト試合なんて言うのもあったが、軽量なども前日の昼にやって、次の日の夜に試合と言うような、結構のんびりとそしてまわりが余裕を持って集まれるような感じで試合を組んでいたように思えるのだ。
さらに大会には子供の大会もあって、日本のように未来のチャンピオンやオリンピック選手をつくると言った、押し付け的な試合ではなく、ちょっとやってみてもいいんじゃないというような感じで出場できるようなレヴェルで出れるような試合だ。これに私の知り合いのティミーという子供が出たのだが、当日びびって腹が痛いときけんした。ティミーに「びびって試合をにげるんじゃない」とからかったら「おなかが痛いのだからしょうがないだろ、本当は試合をしたいんだ」と言っていたが、この程度でも、そこにいけば試合を組んでくれると言う、まさに全員参加型の大会で、たいへん楽しかった思い出がある。
それに比べて、日本の試合は個人的にはおもしろくないし雰囲気がわるい。これはボクシングだけではないほかのスポーツ全般についても言えるのだろうが、特に私がうっとうしいと思っているのは、独特の雰囲気でかたまって偉そうにしている軍団である。自分たちは選ばれた軍団だと思っているのだろうか、よくわからないが、監督を囲んでまわりを圧倒し、威圧感たっぷりに練習する。(しかも人の見えるところでするのだが)こういうのがいるとまわりがやりにくいし、観客も気を使わなくてはならない。本当に雰囲気がわるくなる。

今後まわりの観客のことも考えて、こういう奴らが出て来て偉そうにさせないためにも、会場で同じ服を着た奴が何人以上集まるのは禁止とか、でかいこえであいさつするのは禁止であるとかルールをつくってみてはどうか?特にOBとか監督とがきたら「チワース」「ウイーッスゥ」「アアシタ」などとでかい声で連呼し、本人たちは礼儀だと思っているのだろうか、私にしてみればこいつらがでかい声を出せば出すたびに大型犬が「ガオー」と吠えているようにしか聞こえないのだが、聞いててうざいし、こわい、さらにOBだか監督だかしらないが、そういう奴らを特別視したら、かえってまわりに気をつかわせることになるが、ここまで行けばコンビニでたむろしている輩とやってることは同じである。

正直誰がこんなスポーツを命懸けでやっているのだろうか、将来の就職のほうが大事だろ。いつも思うのだが日本人は何をさせるのにも、もったいぶって条件を付け過ぎだ、試合でもこれぐらいでなければ試合に出てはいけないとか、確かにある一定のレヴェルまで達していなければ、けがの恐れがあるので出場させることは好ましくないが、しかしやれ練習をしていないとか、気持ちがどうだとか、趣味で始めたスポーツをいちいちわけのわからない人生論を並びたてられて、それを趣味以上のものにさせられてしまうのはどうかと思うが。

おそらくアマチュアでやるぐらいならば、誰もこんなものに自分の人生やいのちをかけてやろうなんては思っていない。しかしにもかかわらず、こういう輩が幅を利かせることができると言うのは、日本のスポーツは民主主義的ではない、軍国主義あるいは徳川幕府だと言えるだろう




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살맛이 나다(サルマシナダ)

2018-04-05 | Weblog

前にあるこどもの問題で学校に行ってきた。話しによるとこの子は学校の帰りに、自分の名前を書かれて死ねと7回ぐらい書かれた落書きを見つけたらしく、ひどくショックを受けていたようである。話しによるとこの子は行動が少しどんくさいので、少数の人間であるがそのことをうとまれ意地悪をされていたらしい。落書きは誰が書いたかわからない。ひょっとしたら普段からいじめているグループとは違う第3者が書いたかもしれないが、しかしここで深刻に受けとめなくてはならないことは、一人の人間の存在を死ねと言う一番言ってはいけない言葉で否定することである。
私に言わせて見ればこれは魂の殺人であって、実際に暴力は加えてはいないが、その人の存在を定する行為であり、書かれた本人は深く傷つく。私はできるだけそのことを全校生徒に伝えることと、そしてこのことの解決策としてある提案をしたのだが、その提案が受け入れられ学校側も動いてくれたようである。

話しはかわるが心理学用語に「vulinerability」と言う言葉がある。
これはアーヴィングゴッホマンの「スティグマの社会学」の中に出てくる言葉であるが、この言葉は専門用語でかなり詳しい英英辞典にしかのっていないと思う。これはあえて訳すならば「攻撃性を誘発する何か」という言葉であるが、ゴッホマンがこの言葉を彼の著書の中であげたのは、人間には優劣の差異があり、その差異がたえず犠牲者を生み出して来たということを伝えたかったからだろう。いじめは確かに悪いしゆるされることではない、しかし悪は悪として認めながらも、われわれはその「vulinerability」の可能性と言うことについても冷静に考えなくては、本当の解決のはつながらない。さっき言ったように、いじめというのは絶対にゆるされることではないし、はっきりいって犯罪である。しかし教師や保護者あるいは我々のような指導する立場の人間のすべきことは、そのいじめがわるいんだと言うことをマスコミのようにただ糾弾することではなく、その子がそのことにどう立ち向かい解決していくかということで、我々の責任は一方的にそういう問題を取り上げて糾弾しさばきを求めることとは違うからである。

私はこういうことがあったら必ず彼あるいは彼女の様子を教師から聞くことにしている。今回も実際に学校に出向いて、いろいろと話を聞いたのだが、なるべく率直な意見を例えば、なぜこうなったのか彼あるいは彼女の弱さは何だったのか?少し語弊があるかもしれないが、もしそういう弱さを知り、可能ならば決してそうだからいじめられたというようなことではなく、冷静にそのことを受け止めて成長していくことができたならば、本人がそのことを通してより一層前にむかって生きて行くことができるだろう。肉体的な弱さであれば、空手や柔道をやるのもいいだろう、勉強ができないからバカにされているんだったら勉強することを促すこともしかり、このことを通して必要な求められる何かを補うことができ、しんどい思いをした彼、彼女が、より一層成長し前向きに生きて行くことができるようになってほしいからで、このいじめの問題は加害者よりも本人がどうかということが一番問題にされなくては、たとえ相手を糾弾して罰しても意味がないからである。

韓国語に살맛이 나다(サルマシナダ)と言う言葉がある。これは生きる味と言う意味で、100点をとったとか、いいことがある時につかう、ちょっとした喜びの表現で、韓国人はそういう喜びがある時に人生の味がすると言う表現をする。
だいぶ前いじめている人間をつかまえて言ったことがある。
「君の好きなものは何だ」「ゲームで遊ぶこと」「ゲームで遊ぶことか、でもいじめられている子供にも好きなものはある。でもその好きなことを考えられないぐらい追いつめられている。好きな物のことが考えられないこの苦しみが分かる。」人間は毎日小さい喜び「サルマシナンダ」がある。チョコレートを食べることも、好きなおもちゃで遊ぶこともすべて「サルマシナンダ」であり、そういう小さな喜びを我々は日々感じながら生きている。それを感じて生きているから幸せだと言えるのだ。いじめというのは学校だけではなく、社会やそしてスポーツの世界に存在する。その小さな喜びさえうばってしまう残酷なものである。この人間の権利を奪う犯罪を決してゆるしてはならない。



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My identity crisis has gone.

2018-04-04 | Weblog

HIという州は結構ボクシングクラブが存在している。私がトレーニングしていたジムは体育館ぐらいの大きさのジムで、公式のリングがひとつと練習用のリングがあって、そこにチームごとにトレーニングをしていた。HIは結構試合が多い、当時は競技者も多かったのでHIトーナメントははっきり言って、日本の全日よりもレヴェルは上であったと思う。

話は試合の話だが、ある時自分は、少し治安がわるい地域で試合をすることになった。HIと言えば日本人が多く、日本語も通じる日本人にはたいへん生活しやすい場所である。しかし場所が変わればぜんぜん違って、ピーターが言うには、そこは多くの人が生活保護みたいなものをうけて生活している貧しい地域である。ここでは日本人と言えば、金持ちであるが、よわっちい民族、相手はこんなカレッジボーイに負けてたまるかと、敵対心むき出しで、かなり気合が入っていたと思う。たぶん日本人だったら民族的なコンプレックスや、いがみあいというのはあまりよく理解できないだろうが、当時の私はアイデンティティクライシスで、かたまって集まる奴らやある種の民族には敵意を持っていて、この時彼らに対して同じような、いやそれ以上の敵意を持っていたことは確かである。案の定試合は壮絶なうちあいで、たぶん覚えている限りでは、終わって顔がはれ上がり、体にあざができて次の日起きることもままならないぐらいのダメージをおったが、でもこの時何かすべてをはきだしたようで、試合がおわった時はそこで自分と同じように全力でファイトしてくれた相手に心から感謝の気持ちを持てた、そんなナイスな試合であった。

そしてその後自分は他の人間の試合もあるので、控え室のようなところで待機していたが、その時一人の男が近づいてきた。それはその時私の審判をつとめてくれた人である。近づいて来て、彼は自分に手を差し伸べてきて握手を求め、そしてこう言った「Congratulations」彼は自分の試合をよく思ってくれたのか、あえてここまで握手をしに来てくれたのだ。自分の体験で恐縮であるが、アメリカ人のコーチは、選手にたいへん敬意をはらってくれていることがわかる。そしてそれは審判とて同じ、だからこそ彼はあえてこうして自分に握手を求めにきてくれたのだ。私はここでひとつずつ試合を重ねていくうちにボクシングだけではなく、人間としても成長していった。そしてその自分を成長させてくれたのは、こういう人と人とのぶつかりあいやふれあいだったと思う。私はむこうで競技して、日本のような縦の関係ではない、人と人とのつながりを学んだ。一生懸命そこで競技したものだからこそ分かる。どんな相手であれ、そこで出会いファイトしたのであればその相手に敬意をはらう。これがクーベルタンの言うスポーツマンシップであり、このことを私はボクシングというスポーツを通して学ぶことができた。

私らしからぬことを書くが、はっきり言ってボクシングをする人間に体育会が求めるような礼儀やあいさつなんて求めること自体がナンセンスだ。私から見たら日本の競技者は監督の子飼いだ。首に大きな首輪がついている。もともとボクシングなんていうような格闘技をやる奴は一匹狼タイプなので、競技者であるならば、つべこべいわずそこで自分のすべてを吐き出したらいい。実際にそういうことをぶつけて行けば必ず答えを与えてくれる。それがボクシングというスポーツだと思う。大切なのは監督やコーチの前でいい子になることではない。自分が対峙した相手に最大の敬意をはらうことである。勝っても負けても、ともに向き合い全力でファイトした人間として、敬意をはらうことが大事であり、全力でファイトしたらそれがわかる。そういうことを繰り返すことで人間として相手を受け入れることのキャパが広げられるのだと思う。それが私がボクシングから得たことだ




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言葉の力

2018-04-03 | Weblog

心理学で有名な話である。昔フリードリッヒ大王かどうかは定かではないが、こういう残酷な実験をしたそうである。生まれて間もない赤ちゃんを50人ずつに2組に分けて、両方とも同じ条件で育てたのだが、しかしひとつだけ違うところは、一方に言葉をかけて育てたのだが、もう一方は何も言葉をかけないで育てたそうである。数ヶ月すると言葉をかけられた赤ちゃんは、すくすくと元気に育ったが、しかし言葉をかけられなかった赤ちゃんは、死んでしまったそうである。この話は本当かどうかはわからない。しかしこの物語はわれわれに、いかに言葉というものが大切なものであるかということを教えている。

 私はかつて仕事が終わってから、ノートに今日自分は一体どういうことを人に語ったかということを書いたことがある。覚えていること自体めんどくさいのだが、とにかく帰って自分が言ったことを思い出し、書き綴ったのであるが、結構それを整理してみて、反省点を含めいろんなことに気づかされたことを覚えている。今ここで何がどうであるということは言わないが、しかしこのことを実践することによって言葉の重みを理解できたことは確かなことである。言葉を生かすも殺すも本人次第だ、特に我々のような言葉を扱う人間は、言葉の重みをよく理解して選び取っていかなくてはならないだろう。私は人間の成長にはこの言葉が深くかかわっていると思う。すなわちその人がそこでどういう言葉をかけられ、どういう言葉の影響を受けていくかということは、人間の成長に大きくかかわっていて、どういう言葉の環境に人間はおかれるかで、未来の在り方もかわってくると思っている。学生時代に韓国人が集まる教会に食事によくありつきに行っていた。そこは教養の高い人たちがいて使う言葉なんかも知的で品格のある言葉を使っていたと思う。おそらく使う言葉によって集まってくる人も違うし、そういう環境だからこそ優秀な人間も育つのだと思わされる経験であったが、ボランティア活動なんかも積極的にしていたし、本当に質の高い人たちが集まっていたと思う。私は群れの中心の責任者の言葉がとぼしければ、まともな人間は集まってこないと思っている。本当にその群れをよくしたかったら責任者が言葉をよく理解し言葉の重みを知って、ポジティブな言葉をクラブで使うことを心がけることが必要だと思う。私は責任者が知性を重んじ、言葉を磨いて、そういう環境をつくることで言葉は自ずと生きてくる。そしてそういう言葉が人を慰め、支え、成長へと導くものだと信じている。
 
聖書にこういう言葉がある。昨日原書の話をしたので原書で書くとἘν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.πάντα δι’ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν. ὃ γέγονεν.ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·読み方はエン アルケー エン ホ ロゴスといかにも古代の言葉が続くが、日本語では「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」である。バイブルに馴染みのない日本人にはこの言葉を聞いてもピンとはこないが、この言葉は有名な言葉だ。ここで原文のλόγοςは言葉と訳されている。あまり専門的なことを言っても、わからない人もいると思うので割愛するが、西洋哲学において言葉は単なる文字ではない。言葉と訳されているλόγοςは神であり、命の源、力であり、ヘラクレイトスはこれをすべての源だと言ったが、λόγοςには言葉という意味だけではなく、そういう力が込められている。

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原書のすすめ

2018-04-02 | Weblog

私は彼には好感を持っているのだが、元ボクシングの金メダリストは哲学とか心理学に興味があると言っていた。対談らしきものを見たが、正直彼の話を聞いているだけだが思ったことは、実力の割には難しい本を読みすぎだ。おそらくアドラーなんて言うのもそれはアドラーについて書かれた本だと思うし、アドラーを読みたかったら論文は日本語では読めないので、必然的に英語になる。前に哲学者との対談で、カントの考え方で基礎的なkategorischer Imperativ(提言命法)を説明してもらっているので思わず笑ってしまったが、もう少し考えることの基礎というものを積んで難しい書物は読むべきだろう。私は彼を決してくさしているのではない。むしろアスリートが彼のように哲学や心理学、そして社会学を学ぶというのは大事なことだと思っている。彼の哲学者に質問する姿はまさに仏教でいうところの求道者的で、チャンピオンだというのに謙虚な姿は、今のところボクサーの中では非常に好感を持っている。

私が一番哲学を学ぶにあたって考え方が養われると思うのは。原書でその書物を読む、特に古典を読むことだ。日本語で訳されたものはその訳者の考え方の影響があるし、訳しにくい部分もある(英語でも専門用語はそのままラテン語やドイツ語で使われることが多いが、しかし日本語はすべて翻訳している。)だから実際にその考え方をより理解するために原書やそれに近い英語などで書物を読むことは大事なことだ。原書を読むと実際にその文の意味を理解していかないと文がつながらないとか、そこにリンクしていかなくては著者の意図が理解できないということがあるので、辞書を片手にでもひとつひとつ意味を理解しながら読んでいくことで違う角度から物事を見れるようになる。英語もなかなか著者によってはすごくくせがあって読みにくいが、しかし日本語のように解釈のちがいというのがあまりないと思うので頑張って訳してみたらいかがだろうか。原書や哲学関連の本など他の言語で書物を読むということは考え方を広げる上ではかなり重要だ。私もこのことによってかなり考え方を広げられたと思う。

 


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うちのコモンセンス

2018-04-01 | Weblog

よく格闘技のクラブでは会員に練習生などの言葉を使うが、その言葉を聞くたびになんやそれと思ってしまう。この言葉はいささか上から目線のような気がしてならないが、うちではなるべくこういう独特の格闘技くさい言葉は使わないようにしている。トレーニングにしても大人が集まるクラブであるから、独特のオーラをだして追い込んで汗まみれになってへとへとになってたおれこむというようなトレーニングの仕方はうちではコモンセンスにかける行為、うちはダイエットや健康維持が大半を占めているのだから、このような中高生のようなトレーニングの仕方は時にはまわりの迷惑ともなりうる。だから見学に来た時には特に若い男性にはそのように伝えるようにしているが、女性はもちろん子供も在籍しているので、みんなが気持ちよく楽しくトレーニングするためには、日本人の言う常識やジムでの小さいルールよりもお互いがコモンセンスを守ってトレーニングすることが大事なことだと思っている。私はこれからは日本人の言う自分たちだけが通用する常識よりもさらにコモンセンスについて考えなくてはいけないと思っているのだが、コモンセンスは直訳すると「共通認識」日本語で言うところの「常識」のことである。体育会系ではあいさつしたり、先輩や親玉に服従することがその世界の常識だとされているが、しかしこの言葉は日本語で言うところのそれとは少し違うのだが、一般的にそういうことが礼儀正しいとか常識があると思われがちである。

LONGMANの辞書にはコモンセンスを「the ability to behave in a sensible way and make practical decisions」と記している。「the ability to behave in a sensible way」 というのは思慮分別のあるおこないができる能力で「make practical desisions 」というのは現実的な判断ができる能力のこと、すなわちコモンセンスとは相手との人格的な相互関係から生まれてくるものであり、それは日本語のいう常識だけのことではない、相手の人権や習慣などを包括しているグローバルな言葉で、これだけでも、大きい声で返事をしろとか、挨拶をしろ、ただ上から言われたことに服従するだけのいわゆる小学生レベルの常識ではない、それはセンスの問題だということが理解できると思う。少し前タイヤの会社が、タイヤの溝ががアラビア語の神を意味する言葉だからそれを変えろという訴えがあり、この訴えに即座に応じた事件があったが、まさにコモンセンスというのは相手の国の習慣、宗教をどう知った上で判断する問題でもあり、ここから考えても日本人の言う常識だけでは判断できないことが理解できる。

これは以前あげたことであるが、試合に勝ったのにその場で監督にあやまった選手がいた。ひとりや二人ではないほとんどの選手がこんな相手に苦戦してすいませんとその負けた選手に気を遣うことなく大きい声であやまっていたのだが、あいさつはできてもこういう軍団にコモンセンスなどみられるだろうか、スポーツのレベルは上級でもコモンセンスは最低のレベル、コモンセンスというのは上からただ強制的に叩き込まれる宗教儀式のようなものではない、英語でいうところのコモンセンスはまわりのことを意識し、考えなくてはならないセンスやインテリジェンスな問題でもある。はたしてスポーツだけをやっているような人間に、このようなものが育つかどうか疑問だ。現にパワハラや暴力の問題なんかはアスリートのレベルのひくさをもろに表している。前に柔道でパワハラや暴力、レイプなどの事件が問題になったのもそうだ、その時柔道のもとアスリートが柔道家としてという言葉を持ち出していたが、しかし暴力やレイプなんて言うのはそういう問題ではない。じゃあ柔道家でなければやらなかったのか、聞こえようによってはあいつらは柔道家じゃないからというような責任逃れの言葉で、自分たちを特別視している。本当に一般の人たちをバカにした言葉である。

うちのクラブは運動クラブではない。大人が集まるクラブなのでなるべくそういう人たちの目から見た正しさというものを考えて、クラブをより有機的で、楽しく、安心してトレーニングできるところにしたいと思っている。



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