脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

살맛이 나다(サルマシナダ)

2018-04-05 | Weblog

前にあるこどもの問題で学校に行ってきた。話しによるとこの子は学校の帰りに、自分の名前を書かれて死ねと7回ぐらい書かれた落書きを見つけたらしく、ひどくショックを受けていたようである。話しによるとこの子は行動が少しどんくさいので、少数の人間であるがそのことをうとまれ意地悪をされていたらしい。落書きは誰が書いたかわからない。ひょっとしたら普段からいじめているグループとは違う第3者が書いたかもしれないが、しかしここで深刻に受けとめなくてはならないことは、一人の人間の存在を死ねと言う一番言ってはいけない言葉で否定することである。
私に言わせて見ればこれは魂の殺人であって、実際に暴力は加えてはいないが、その人の存在を定する行為であり、書かれた本人は深く傷つく。私はできるだけそのことを全校生徒に伝えることと、そしてこのことの解決策としてある提案をしたのだが、その提案が受け入れられ学校側も動いてくれたようである。

話しはかわるが心理学用語に「vulinerability」と言う言葉がある。
これはアーヴィングゴッホマンの「スティグマの社会学」の中に出てくる言葉であるが、この言葉は専門用語でかなり詳しい英英辞典にしかのっていないと思う。これはあえて訳すならば「攻撃性を誘発する何か」という言葉であるが、ゴッホマンがこの言葉を彼の著書の中であげたのは、人間には優劣の差異があり、その差異がたえず犠牲者を生み出して来たということを伝えたかったからだろう。いじめは確かに悪いしゆるされることではない、しかし悪は悪として認めながらも、われわれはその「vulinerability」の可能性と言うことについても冷静に考えなくては、本当の解決のはつながらない。さっき言ったように、いじめというのは絶対にゆるされることではないし、はっきりいって犯罪である。しかし教師や保護者あるいは我々のような指導する立場の人間のすべきことは、そのいじめがわるいんだと言うことをマスコミのようにただ糾弾することではなく、その子がそのことにどう立ち向かい解決していくかということで、我々の責任は一方的にそういう問題を取り上げて糾弾しさばきを求めることとは違うからである。

私はこういうことがあったら必ず彼あるいは彼女の様子を教師から聞くことにしている。今回も実際に学校に出向いて、いろいろと話を聞いたのだが、なるべく率直な意見を例えば、なぜこうなったのか彼あるいは彼女の弱さは何だったのか?少し語弊があるかもしれないが、もしそういう弱さを知り、可能ならば決してそうだからいじめられたというようなことではなく、冷静にそのことを受け止めて成長していくことができたならば、本人がそのことを通してより一層前にむかって生きて行くことができるだろう。肉体的な弱さであれば、空手や柔道をやるのもいいだろう、勉強ができないからバカにされているんだったら勉強することを促すこともしかり、このことを通して必要な求められる何かを補うことができ、しんどい思いをした彼、彼女が、より一層成長し前向きに生きて行くことができるようになってほしいからで、このいじめの問題は加害者よりも本人がどうかということが一番問題にされなくては、たとえ相手を糾弾して罰しても意味がないからである。

韓国語に살맛이 나다(サルマシナダ)と言う言葉がある。これは生きる味と言う意味で、100点をとったとか、いいことがある時につかう、ちょっとした喜びの表現で、韓国人はそういう喜びがある時に人生の味がすると言う表現をする。
だいぶ前いじめている人間をつかまえて言ったことがある。
「君の好きなものは何だ」「ゲームで遊ぶこと」「ゲームで遊ぶことか、でもいじめられている子供にも好きなものはある。でもその好きなことを考えられないぐらい追いつめられている。好きな物のことが考えられないこの苦しみが分かる。」人間は毎日小さい喜び「サルマシナンダ」がある。チョコレートを食べることも、好きなおもちゃで遊ぶこともすべて「サルマシナンダ」であり、そういう小さな喜びを我々は日々感じながら生きている。それを感じて生きているから幸せだと言えるのだ。いじめというのは学校だけではなく、社会やそしてスポーツの世界に存在する。その小さな喜びさえうばってしまう残酷なものである。この人間の権利を奪う犯罪を決してゆるしてはならない。



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