脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

うちのコモンセンス

2018-04-01 | Weblog

よく格闘技のクラブでは会員に練習生などの言葉を使うが、その言葉を聞くたびになんやそれと思ってしまう。この言葉はいささか上から目線のような気がしてならないが、うちではなるべくこういう独特の格闘技くさい言葉は使わないようにしている。トレーニングにしても大人が集まるクラブであるから、独特のオーラをだして追い込んで汗まみれになってへとへとになってたおれこむというようなトレーニングの仕方はうちではコモンセンスにかける行為、うちはダイエットや健康維持が大半を占めているのだから、このような中高生のようなトレーニングの仕方は時にはまわりの迷惑ともなりうる。だから見学に来た時には特に若い男性にはそのように伝えるようにしているが、女性はもちろん子供も在籍しているので、みんなが気持ちよく楽しくトレーニングするためには、日本人の言う常識やジムでの小さいルールよりもお互いがコモンセンスを守ってトレーニングすることが大事なことだと思っている。私はこれからは日本人の言う自分たちだけが通用する常識よりもさらにコモンセンスについて考えなくてはいけないと思っているのだが、コモンセンスは直訳すると「共通認識」日本語で言うところの「常識」のことである。体育会系ではあいさつしたり、先輩や親玉に服従することがその世界の常識だとされているが、しかしこの言葉は日本語で言うところのそれとは少し違うのだが、一般的にそういうことが礼儀正しいとか常識があると思われがちである。

LONGMANの辞書にはコモンセンスを「the ability to behave in a sensible way and make practical decisions」と記している。「the ability to behave in a sensible way」 というのは思慮分別のあるおこないができる能力で「make practical desisions 」というのは現実的な判断ができる能力のこと、すなわちコモンセンスとは相手との人格的な相互関係から生まれてくるものであり、それは日本語のいう常識だけのことではない、相手の人権や習慣などを包括しているグローバルな言葉で、これだけでも、大きい声で返事をしろとか、挨拶をしろ、ただ上から言われたことに服従するだけのいわゆる小学生レベルの常識ではない、それはセンスの問題だということが理解できると思う。少し前タイヤの会社が、タイヤの溝ががアラビア語の神を意味する言葉だからそれを変えろという訴えがあり、この訴えに即座に応じた事件があったが、まさにコモンセンスというのは相手の国の習慣、宗教をどう知った上で判断する問題でもあり、ここから考えても日本人の言う常識だけでは判断できないことが理解できる。

これは以前あげたことであるが、試合に勝ったのにその場で監督にあやまった選手がいた。ひとりや二人ではないほとんどの選手がこんな相手に苦戦してすいませんとその負けた選手に気を遣うことなく大きい声であやまっていたのだが、あいさつはできてもこういう軍団にコモンセンスなどみられるだろうか、スポーツのレベルは上級でもコモンセンスは最低のレベル、コモンセンスというのは上からただ強制的に叩き込まれる宗教儀式のようなものではない、英語でいうところのコモンセンスはまわりのことを意識し、考えなくてはならないセンスやインテリジェンスな問題でもある。はたしてスポーツだけをやっているような人間に、このようなものが育つかどうか疑問だ。現にパワハラや暴力の問題なんかはアスリートのレベルのひくさをもろに表している。前に柔道でパワハラや暴力、レイプなどの事件が問題になったのもそうだ、その時柔道のもとアスリートが柔道家としてという言葉を持ち出していたが、しかし暴力やレイプなんて言うのはそういう問題ではない。じゃあ柔道家でなければやらなかったのか、聞こえようによってはあいつらは柔道家じゃないからというような責任逃れの言葉で、自分たちを特別視している。本当に一般の人たちをバカにした言葉である。

うちのクラブは運動クラブではない。大人が集まるクラブなのでなるべくそういう人たちの目から見た正しさというものを考えて、クラブをより有機的で、楽しく、安心してトレーニングできるところにしたいと思っている。



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