脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

murderballって何かわかる?

2018-04-07 | Weblog

ドッジボールはいじめに近いスポーツだと、米国ではこれを禁止している学校もあるらしい。理由は運動能力の低い子どもが感じる恐怖心や、悪意のある児童、生徒が普段から気に入らない友達にボールを当てるということがあるのではないかということがだが、確かに考えたらそう言えるのだが、私もどちらかというとドッジボールにはあまりいいイメージはない。

それは子供会のドッジボール大会での話であるが、その休み時間に子供たちがおにごっこのような感じで楽しそうに走り回っている。そこに一人の子供がいた、彼はその群れでいっしょに走り回っているのだが、しかし彼はタッチされない。みんなわいわいと他の子にタッチして走り舞っているのだが、彼の存在に気づかないのかほとんど素通り状態である。それでも彼はその群れの中で、満足そうに走っている。時々誰かが一言話しかければ楽しそうに笑うが、どうやら彼はその群れでは透明の存在である。その時二人の子供の会話が耳に入った。「次の試合の組、俺と誰々と、そして何々っていう奴」「何々って誰」その会話を聞いて、あれ「何々君」はあの子だろ。自分たちと同じチームだろ。なのに名前も知らないのか?と少しさびしい気持ちになったが、しかし残酷ではあるが子供の世界はしょせんこういうものかも知れない。

時々こういう子供を見かけるのだが、人の輪に入れない子供は運動神経のわるい子や要領のわるい子はもちろんのこと、個性が強いとか、IQが極めて高いと言うような子供もいる。私自身も生まれながらに人との違いを感じて育ったので、どちらかというと透明の存在に近かったのだろう。私はこのままではその子があまりにもかわいそうなので、そのドッジボールの練習のことである提案をした。それはこのチームの子供たちが試合になると、同じ人間ばかりがボールを回しているように見えたからであり、もう少しまわりにパスをまわすように、練習の時も実際にそのことを実践させて見てはどうかということである。たぶんそんなことをしても子供のことだから、にわかにそういうことが実践できるはずはない、しかし実際みんなにパスを回すと言うことを心がけることで、自分よりも体力のおとったものや、低学年の子供にパスをするということに気づく子供がひとりでもいればいいと思ったからである。


透明な存在は誰かが気づかなくては透明である。しかし誰か一人でも彼、彼女の存在に気づくものがいれば、その彼彼女は透明ではない、彼、彼女はちゃんとそこに存在するのである。誰かがひとりの存在に気づくということは、まず多様性と言うものを認めることからはじまると思っている。日本人は単一民族でみんな同じと言うことを強調する民族なので、その多様性を認めることは難しいことであるが、しかしその違いと言うものを理解し、認めていかなくてはならないと思っている。私が英語にこだわるのは、共通語をおぼえたり、他の文化にふれることで、自分とは違う人間がたくさん存在するのだ、自分たちが生きている世界がすべてではないということを実感してほしいからである。我々の世界もドッジボールのようにパスを回しあわなくてはならない。パスを回しあうということは、様々な意見を聞くことやその文化にふれることだ。そのいろいろな民族や文化や宗教そして考え方の違いを認め、多様性を認めることで、自分たちではない他の存在が見えてくるのだと思う。

個性の強い子供はIQの高い子供が多く、やたら計算がはやかったり、驚くほど暗記力にすぐれていたり、中には何か国語も話す子供もいる。こういう子供に礼儀とかバカなしきたりが通用するはずはない、言うことが大人びているので、中にはあいつは生意気だとか、子供らしくないと言うようなバカもいるが、しかし子供らしくないのが彼、彼女の個性であり、彼、彼女らは自分のこういう個性を十分に知っていると思うのだが、IQの高い子にはへんに大人ぶらずに、まともに話してやったらいい、こういう時も礼儀とか、上下関係など気にしていては何もできないが、とにかく同じ目線で話してやると信用されることもあるだろう。


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