脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

My identity crisis has gone.

2018-04-04 | Weblog

HIという州は結構ボクシングクラブが存在している。私がトレーニングしていたジムは体育館ぐらいの大きさのジムで、公式のリングがひとつと練習用のリングがあって、そこにチームごとにトレーニングをしていた。HIは結構試合が多い、当時は競技者も多かったのでHIトーナメントははっきり言って、日本の全日よりもレヴェルは上であったと思う。

話は試合の話だが、ある時自分は、少し治安がわるい地域で試合をすることになった。HIと言えば日本人が多く、日本語も通じる日本人にはたいへん生活しやすい場所である。しかし場所が変わればぜんぜん違って、ピーターが言うには、そこは多くの人が生活保護みたいなものをうけて生活している貧しい地域である。ここでは日本人と言えば、金持ちであるが、よわっちい民族、相手はこんなカレッジボーイに負けてたまるかと、敵対心むき出しで、かなり気合が入っていたと思う。たぶん日本人だったら民族的なコンプレックスや、いがみあいというのはあまりよく理解できないだろうが、当時の私はアイデンティティクライシスで、かたまって集まる奴らやある種の民族には敵意を持っていて、この時彼らに対して同じような、いやそれ以上の敵意を持っていたことは確かである。案の定試合は壮絶なうちあいで、たぶん覚えている限りでは、終わって顔がはれ上がり、体にあざができて次の日起きることもままならないぐらいのダメージをおったが、でもこの時何かすべてをはきだしたようで、試合がおわった時はそこで自分と同じように全力でファイトしてくれた相手に心から感謝の気持ちを持てた、そんなナイスな試合であった。

そしてその後自分は他の人間の試合もあるので、控え室のようなところで待機していたが、その時一人の男が近づいてきた。それはその時私の審判をつとめてくれた人である。近づいて来て、彼は自分に手を差し伸べてきて握手を求め、そしてこう言った「Congratulations」彼は自分の試合をよく思ってくれたのか、あえてここまで握手をしに来てくれたのだ。自分の体験で恐縮であるが、アメリカ人のコーチは、選手にたいへん敬意をはらってくれていることがわかる。そしてそれは審判とて同じ、だからこそ彼はあえてこうして自分に握手を求めにきてくれたのだ。私はここでひとつずつ試合を重ねていくうちにボクシングだけではなく、人間としても成長していった。そしてその自分を成長させてくれたのは、こういう人と人とのぶつかりあいやふれあいだったと思う。私はむこうで競技して、日本のような縦の関係ではない、人と人とのつながりを学んだ。一生懸命そこで競技したものだからこそ分かる。どんな相手であれ、そこで出会いファイトしたのであればその相手に敬意をはらう。これがクーベルタンの言うスポーツマンシップであり、このことを私はボクシングというスポーツを通して学ぶことができた。

私らしからぬことを書くが、はっきり言ってボクシングをする人間に体育会が求めるような礼儀やあいさつなんて求めること自体がナンセンスだ。私から見たら日本の競技者は監督の子飼いだ。首に大きな首輪がついている。もともとボクシングなんていうような格闘技をやる奴は一匹狼タイプなので、競技者であるならば、つべこべいわずそこで自分のすべてを吐き出したらいい。実際にそういうことをぶつけて行けば必ず答えを与えてくれる。それがボクシングというスポーツだと思う。大切なのは監督やコーチの前でいい子になることではない。自分が対峙した相手に最大の敬意をはらうことである。勝っても負けても、ともに向き合い全力でファイトした人間として、敬意をはらうことが大事であり、全力でファイトしたらそれがわかる。そういうことを繰り返すことで人間として相手を受け入れることのキャパが広げられるのだと思う。それが私がボクシングから得たことだ



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 言葉の力 | トップ | 살맛이 나다(サルマシナダ) »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事