脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ありがとうごじゃいます

2015-09-10 | Weblog

日本の大学入試には国語は必須である。しかし帰国子女が増えてきている時代にはたして大学と言う教育機関においてそれを必須条件にしてさをつけるのは理にかなったことであろうか?私は国語は必須にする必要がないと思っている。もちろん国語教育は重要であるが、しかし高校の試験ならまだしも大学と言う専門の勉強をする場において国文学を学ぶならまだしもそこまで高い日本語力が必要であるとは思えない。そもそも論文を書く時に英語が読めなければ話にならない。ジャーナルなどがそうだがほとんどの論文はまず英語で書かれるからで、日本語に翻訳されているのはかなり少ないだから英語が読めなくては論文を書くことができないおそまつでおわってしまうのである。この前は母国語は大事だと言ったがそれは大学に入る前までのことで所謂母国語をマスターすると言うのは基礎的なことで基礎的なことができていれば日常的に日本語を使い程度のひくい集団とつきあわなければ言葉は洗練されて来るだろう。もちろん読解力とか思慮深さと言うのは日本語力にかかわってくるが、しかし英語が読めるのと読めないのとでは学問的な意味では大きく差が出てくる。ボクシングだってそうだ子供のボクシングなんて言うのも海外の論文を見たら子供に競技目的でボクシングをさせるのは危険であることがわかる。英語圏では子供にボクシングをさせることにかなり慎重であるが、こういう記事や論文をはたして読んだことがあるのだろうか?そういうことも英語が読めないと理解できない、今アマチュアボクシングが盛んな国は?目立った国は?たいていがアムネスティで問題になっている国だ。医学的に見て子供の頭にパンチをうつことは危険である。それでもさせるなら本人の希望とか責任逃や軽く当てているとか言う子供のようないいわけをせずにまず始める前にいかに危険かと言うことを説明しコントラクトにサインさせる必要がある。子供や親に本人の希望なんて言うのはあまりのも稚拙でそんな判断を子供ができるのかあるいは子供に何のうたがいもなく試合目的でボクシングをさせる親にはわからない、こういうことは医学的はもちろんのことそういうことをさせていいのかと言う倫理的なことも含めて、もしさせるのであれば頭や脳と言う人間の一番デリケートな部分をあつかうのだからはっきりと何が危険であるかと言うことを説明する義務は当然ある。そういう灰色の部分はこちらがしっかりとその危険性を考慮して説明する、英語が読めません、難しいことがわかりませんでは通用しない。それができないでは所謂人権などを基本的に守ろうとする先進国の考え方にはついてはいけない。

話はお隣の国の話になるが向こうでは高度な論文は英語で書くのが当たり前だ。英語で書くのは母国語の単語が日本語のように多くないので表現を韓国語では網羅できないということもあるのだが、しかしどっちにしろ論文を書くことを英語にシフトして行くことは正しいことだ。日本には帰国子女の数が多く存在するが彼ら彼女らが日本の試験を受けるのは不利である(特にアジア系)不利だから海外の大学に行くと思うのだが(アメリカではSATと言う大学入試のための査定のような試験があるが何か語学が話せると最大二つまで科目が免除になる)。おそらく試験において日本語がひとつのネックになっているからだ。しかし大学と言う期間は専門の過程を学ぶのであるから優秀な人材を受け入れるためにはそこをもう少し考えなくてはいけないと思う。多くの人間は英語が話せるのだからその特化された能力を部分的にではなく全体的にいかすべきだ。そのため国語を選択科目にしてTOEICやTOFLEなどの科目などを何点以上であれば一科目免除などというシステムを導入することも必要なことだと思う。日本人は日本に来たら日本語を話せよと言うが、しかし英語が話せないと言うことはディスアドバンテージで恥ずかしいことである。この前セブンイレブンでレジの前に並ぼうとしたのだが、私はそこにいた外国人に気づかずに彼をとばして並んでしまった。途中気づいてお先にどうぞと言ったらすごく喜んだ様子で英語がわかりますか?と聞いてきたのでハイと答えたら話しかけてきた。お先にどうぞって英語でどういうのか?東京オリンピックがはじまろうとしているのにこれぐらい言わなくてはアスリートとは言えない。しゅっしゅつしゅっ俺は世界を目指すと言っても英語が話せませーんではみじめなだけだ。本当に世界で認められるためには英語を話し自己主張しなければ通用しないだろう。

韓国の学校に通っている小学生のハーフの女の子、おじいちゃんとおばあちゃんに誕生日プレゼントの感謝の手紙を出した。そこには「ありがとうごじゃいます。」と向こうにはフェとザの音がないので「ありがとうございます」が「ありがとうごじゃいます」となる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨボセヨ

2015-09-09 | Weblog

外国人の友人と英語教育の話題になった。英語をおぼえることは今の世界では必須であるが、これを早い時期から学習させると言うことはどうかということである。私はまず母国語をしっかりとおぼえさせることが先決だと思う。母国語と言うのは物を考える時の土台となり、この土台がしっかりしていないと本当に正しい意見など言うことはできない。自分が今育っている国の言葉をおぼえてアイデンティティを確立させることは他の言語をおぼえることよりも必要なことだと信じている。だいぶ前にその友人に知的な人はどういう人かと聞かれて日本語力のある人と答えたが、日本語力の強い人は思慮深くまわりの意見に流されたりしないと言うのが私の意見である。礼儀やあいさつを強調しても日本語力がひくいとある一定のラインからはバカにされるだろう。そもそも礼儀とは日本語を正しく使うことではないか?davichiのLee haeri(イヘリ)と言う歌手がいる。だいぶ前にテレビを見ていて彼女が途中で登場するシーンがあった。たぶん誰かが歌おうとしてた時に現れて一緒に歌うことになっていて、その入ってくる時に「ヨボセヨ」と声をかけて入ってきた。「ヨボセヨ」と言うのは「もしもし」と言う呼びかけであるが使い方によっては「ごめんください」みたいな感じになるのだが、彼女が「ヨボセヨ」と入ってきたのがまさにそのタイミング、この人言葉の使い方がきれいだなあと感心したのだが、言葉の使い方が正しくきれいだとその人の品格につながる。そういうことが礼儀正しさだと解釈している。その他に私が品格があると思う女性はキャスターの桜井さんイヨンエなどいるが、やはり彼女らは教養があって言葉の使い方がきれいだ。運動系のクラブではあいさつだの礼儀だの言っているが、いくら礼儀やあいさつと言ってもそのさせている人間の日本語力や語彙力がひくければ本当に礼儀正しい人間なんて育つだろうか?語彙力や表現力と言うのは特に指導する人間の質をあらわすと思っている。その群れの質がわるいと言うことはその指導者の質がわるいからだ。ある哲学者は人間は言葉によって自分の世界を広げていくと言ったが言葉を学ばなければ世界が小さくなっていく、格闘技の指導者などでも何かこの人感覚がずれているなという人がいるがこういう人は往々にして言葉や表現力がとぼしく勉強がきらいなタイプであると疑っている。一応自分との利害関係があるものにはあいさつできて、先輩や監督などに服従する。がしかし一歩外に出たら素行がわるい、未成年のくせにたばこを吸ったり酒を飲んだりケンカをしたりなんていうのは言葉が伝わっていない証拠だ。威嚇したような恰好や持ち物はその人間の性質をあらわしている。さっきも言ったがガラがわるいと言うのは人間の質でもある。私がもし高校や中学の監督をするならば部員は辞書必携にする。そしてミーティングや何かの機会に難しい言葉を使うたびに意味が分かるかとキャプテンに問いわからなければ辞書をひかせてまず彼ら彼女らの言葉から洗練する。それは日本語を正しく使うと言うことで群れが洗練されると信じているからだ。でかい声でチワーッスとか言わなくても日本語が正しく使われようとすれば礼儀正しいと感じさせる。サルの秩序を保つためのようなかたちからの礼儀よりも言葉を勉強して知性を磨くことによって洗練する礼儀を求めることが大事なことだと思う。私もまだまだ勉強中であるが特に我々のような社会人の多いクラブにとって言葉をみがくことはプライオリティである。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化や言語はひとつではない

2015-09-06 | Weblog

、交差点のど真ん中に「家庭教師のトライ」と言うサインが、トライって韓国語で放送禁止用語である。その前に犬をあらわすケをつけるととんでもないののしり言葉になるそういう人たちが家庭教師なんて、トライと言うのはチャレンジをより英語的に表現したものだと思うのだが、トライと言うのがトライだけに笑ってしまった。話は野球の話になるが私は日本を応援していない。じゃあ韓国を応援するのかというとそうでもなくどちらかと言えば台湾あたりが頑張って優勝してくれという気持ちがあるがこういうとたぶん日本人はかわっていると言うだろう。しかしなぜかわっているのか?おそらくそれは後にふれるが日本人の多くがひとつの言語しか話せない、文化をひとつしか持たないからである。

「ハーフはなぜ才能を発揮するのか」と言う本がある。これはいわゆるバイレイシャルの話を聞き、取り上げることで日本には日本人とは考え方が違う立場が存在するのだと言うことを伝えている本で、こういう存在が現代の日本に多く存在しているのだが、オリンピックが開催されようとするこれからの日本は彼ら彼女らの価値観や世界観をどう考え融合させていくかと言うことが課題であると思う。私はよく日本人からアイロニーをこめてユニークだと言われる。もともとユニークとはそういう意味で使われることはないのだが、しかし人と考え方が違うのだろうそういう私は日本人から見たらかなりユニークな存在である。しかし外国人や外国に長くいた人などは見解が違う。どちらかと言えば評価が高く、久しぶりにボクシングクラブの監督にあった時に君はよく戦術を理解していて非常にスマートであったとほめていただいたが、彼の評価は協調性や和を重んじる日本人の監督とは違う。ひとつの言語や文化しか知らないというのは非常に狭い考え方を生み出すのだが、日本人が閉鎖的で固まるのは一つの言葉しか話せない人間が多く、自分たちの文化以外は共有できないからだと思っている。少し翻った意見であるが、固まることは別にわるいことではない時にはそれがアドバンテージでもある。しかし程度のひくい人間ともなると別、私はこういう輩が固まることをつるむと言っているが協力するとつるむのは全く別の次元だが、勉強しない本を読まない語学もダメというのは当たり前だが考え方が狭くなるので客観的な考え方んどできない、できないから仲間を求めてつるむのだが、スポーツにはこういうたぐいの集団が存在するから残念である。ユニークであると言うことはただ南米のサルのように目立った恰好をしたり、何もわからないのにただ勢いで滑稽なことを言うことではない。人に認められるような個性と言うのはある程度知性も磨かなくてはならない。ホモサピエンスと言うのはラテン語で知性を持つものでこの知性こそが人間に与えられたものだ。そう考えるとその知性をフルに磨くことが人間の個性をみがきユニークな存在になれるのではないか。もしオリンピックで国際的なコメントを求められたら何というのか?ロンドンオリンピックでロンドンはどこと聞かれて全く見当違いの場所を指さしていたアスリートがいたらしいが、きちんと勉強していなければ滑稽なことを言って恥をかく、日本のバラエティ番組ならばワハハと言ってそれはそれでおいしいのだろうが、しかし外国のメディアにカメラを向けられたら何というのか?そういうことも踏まえて、自分たちの行動や意見と言うのは本当に世界で通用するのかと言うことを考えなければならないと思う。

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナヌン ムオスル ハルスイッタ。

2015-09-02 | Weblog

よく大人はやりたいことを見つけろと言う。がしかしやりたいことなどそんなにすぐに見つかるものでもない。小学生だったらまだしも高校生ぐらいの人間に夢をもてとかやりたいことを見つけろと言うのはあまりにも抽象的で、逆にそういうことを言われてもこまってしまうのではないかと思っている。夢を持てとか言うよりもまず自分に何ができるかということが問題だ。今自分に何ができるかと言うことを考えたら自分の足りなさが見えてくる。その足りなさが見えた時に何が必要かということが見えてきてそこから何かをやろうとするのではないだろうか。そしてそのためには環境が必要である。ある程度教養があって社会できちんとやっている人たちの存在は大きいだろう。私の子供の話で恐縮であるが彼もそういった人たちの影響を受けてきたと思う。今特に何になりたいとかそういうものはないが、しかし勉強しなくてはいけないということがわかっている。まあ要領はいいとは言えないがしかしやるべき時に学習はしているので、やはりそれはまわりの大人を見てこうならなくてはいけないとかここままじゃだめだと自分のたりなさに気づいているからだと思う。ジムでもそうだが人間関係と言うのは人間を成長させる上で重要である。自分のまわりがそれなりの人間ではその人間の成長もたかだか知れている。少ないボキャブラリーで自分たちが知っていることだけを自慢げに話すようなDQNの集団にいても反面教師以外何も学ぶことはないだろう。むしろそういう集団の仲間になってはだめだ。最近子供の犯罪や子供が犯罪に巻き込まれるニュースが後をたたないが、ああいう犯罪の背景には必ずその子供たちを取り囲む環境にズレた大人の存在があるのだが、やはりこういうスポーツクラブはスポーツを教えるだけではなく、教育的にも道徳的にも子供が見本となる大人たちが存在する必要はあると思う。おそらくある程度の年齢になればその人間から刺激をうけてああこの人教養があるなあともっともっと自分も何か学ばなければとか、魅力的な職業であればああいう風になるにはと自分のたりなさに気づき、今ある自分よりももっと上の自分を目指すのではないか。話一つにしても教養があるかないかではまったく違う、私はスポーツ指導者はそこそこインテリの話しについていけなくてはだめだと思っている。若い人がそういう話を聞いて自分もあれぐらい知識を身に着けてああいう会話ができるようになりたいと言う刺激を与えることも大事であり、そういう大人の存在と言うのはそのコミュニティにおいて非常に貴重で大きい存在だと思っている。

事実そういう大人たちに囲まれたら自分はちっぽけで何もできない存在であることがわかる。でもしかし彼彼女には若さがある。若いと言うことは多くに時間と強いエネルギーがある。その若さと言う時間の中で自分のたりなさをみがくことは最も価値あることであり、人間はそう言うことを繰り返して成長していくのだと思う。私の中学時代は本当に何も持っていなかった。本当にちっぽけな存在であった。今でもそこまで自慢できるわけではないが、しかし自分にはなかったたりなかったと気づくことができたから、小さな世界や価値観からぬけだすことができて今や人並みではあるが折る程度のステータスを得ることができたと思っている。しかしはっきり言って自分はまだまだたりないと思っているのだが、一番みっともない人間は持ってないのに持っているふりをする人間だ。同じような仲間を集めて自分たちの通用することしか話をしない、そういう狭い世界で生きてる集団は往々にしてズレた感覚を持っている。アドラーは選択する心理学において集団のかかわりについて述べていたと思うが、本当によい選択をしたかったら付き合う相手と集団を選ぶこと、自分には何ができるかと言うことを知るためにはまずそういう集団の中で自分の存在を知りたりなさに気づくことである。

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まじDQNシロヨ

2015-09-01 | Weblog

コクリコの夏と言う宮崎駿の映画がある。この映画は韓国語吹き替え英語字幕と言うのがある。まあようこんなにも完璧にぱくるわと思ったが、主題歌の歌まで韓国語であったことには驚いた。最近オリンピックのエンブレムがパクリだと話題になっているがこのことをきっかけに中国や韓国のパクリも問題にしたらいいだろう。

最近中国人や韓国人がネットなどでバッシングされているが、しかし私は中国人や韓国人が嫌いかと言うとそうではない。実際には日本人とうまがあうのはやはりそれらの国の人間であると思っているが事実私と彼ら彼女らとの間には信頼関係がある。私が人と付き合うときに基準にしていることは言葉である。日本語を話せる中国人や韓国人の中にはDQNよりもはるかに日本語をただしく話せる人間もいるし、礼儀正しい人間もいる。だぶん大学で勉強している人間は武勇伝を語るような格闘系DQNよりもはるかに日本語の語彙力が高い。私はなるべくその手の店にはいかないようにしているが、たまに食事に行くとそういった連中がいる。私はこいつらの横になるとすぐに帰るようにしているのだが、少ないボキャブラリーでたわいもないようなことをでかい声で周りを気にせず公共の場にもかかわらず話す、盛り上がってでかい声でぎゃははははーと笑いがおこるたびに不快感がます。こいつらの不快感に比べたら中国人や韓国人と歴史問題について議論をするほうがいくらかまし。確かに中国人や韓国人もえげつないことをして帰る人間もいるが、大きな違いはマナーのわるい中国人や韓国人は母国に帰るがこいつらは半永久的に日本にいるということだ。私の言いたいことは東洋人でモラルのひくい奴はほとんど同じような行動をする。私はアジア人と言う立場で自分を見ているので中国人や韓国人のマナーのわるい奴を見たら中国人はとか韓国人はという考え方をしないようにしているが、個人的な意見としては日本人はモラルが高いのでモラルがひくいと目立つ、そういう意味で日本人は道徳的である言ってもいいと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=SwkocI1qLtI

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする