日本の大学入試には国語は必須である。しかし帰国子女が増えてきている時代にはたして大学と言う教育機関においてそれを必須条件にしてさをつけるのは理にかなったことであろうか?私は国語は必須にする必要がないと思っている。もちろん国語教育は重要であるが、しかし高校の試験ならまだしも大学と言う専門の勉強をする場において国文学を学ぶならまだしもそこまで高い日本語力が必要であるとは思えない。そもそも論文を書く時に英語が読めなければ話にならない。ジャーナルなどがそうだがほとんどの論文はまず英語で書かれるからで、日本語に翻訳されているのはかなり少ないだから英語が読めなくては論文を書くことができないおそまつでおわってしまうのである。この前は母国語は大事だと言ったがそれは大学に入る前までのことで所謂母国語をマスターすると言うのは基礎的なことで基礎的なことができていれば日常的に日本語を使い程度のひくい集団とつきあわなければ言葉は洗練されて来るだろう。もちろん読解力とか思慮深さと言うのは日本語力にかかわってくるが、しかし英語が読めるのと読めないのとでは学問的な意味では大きく差が出てくる。ボクシングだってそうだ子供のボクシングなんて言うのも海外の論文を見たら子供に競技目的でボクシングをさせるのは危険であることがわかる。英語圏では子供にボクシングをさせることにかなり慎重であるが、こういう記事や論文をはたして読んだことがあるのだろうか?そういうことも英語が読めないと理解できない、今アマチュアボクシングが盛んな国は?目立った国は?たいていがアムネスティで問題になっている国だ。医学的に見て子供の頭にパンチをうつことは危険である。それでもさせるなら本人の希望とか責任逃や軽く当てているとか言う子供のようないいわけをせずにまず始める前にいかに危険かと言うことを説明しコントラクトにサインさせる必要がある。子供や親に本人の希望なんて言うのはあまりのも稚拙でそんな判断を子供ができるのかあるいは子供に何のうたがいもなく試合目的でボクシングをさせる親にはわからない、こういうことは医学的はもちろんのことそういうことをさせていいのかと言う倫理的なことも含めて、もしさせるのであれば頭や脳と言う人間の一番デリケートな部分をあつかうのだからはっきりと何が危険であるかと言うことを説明する義務は当然ある。そういう灰色の部分はこちらがしっかりとその危険性を考慮して説明する、英語が読めません、難しいことがわかりませんでは通用しない。それができないでは所謂人権などを基本的に守ろうとする先進国の考え方にはついてはいけない。
話はお隣の国の話になるが向こうでは高度な論文は英語で書くのが当たり前だ。英語で書くのは母国語の単語が日本語のように多くないので表現を韓国語では網羅できないということもあるのだが、しかしどっちにしろ論文を書くことを英語にシフトして行くことは正しいことだ。日本には帰国子女の数が多く存在するが彼ら彼女らが日本の試験を受けるのは不利である(特にアジア系)不利だから海外の大学に行くと思うのだが(アメリカではSATと言う大学入試のための査定のような試験があるが何か語学が話せると最大二つまで科目が免除になる)。おそらく試験において日本語がひとつのネックになっているからだ。しかし大学と言う期間は専門の過程を学ぶのであるから優秀な人材を受け入れるためにはそこをもう少し考えなくてはいけないと思う。多くの人間は英語が話せるのだからその特化された能力を部分的にではなく全体的にいかすべきだ。そのため国語を選択科目にしてTOEICやTOFLEなどの科目などを何点以上であれば一科目免除などというシステムを導入することも必要なことだと思う。日本人は日本に来たら日本語を話せよと言うが、しかし英語が話せないと言うことはディスアドバンテージで恥ずかしいことである。この前セブンイレブンでレジの前に並ぼうとしたのだが、私はそこにいた外国人に気づかずに彼をとばして並んでしまった。途中気づいてお先にどうぞと言ったらすごく喜んだ様子で英語がわかりますか?と聞いてきたのでハイと答えたら話しかけてきた。お先にどうぞって英語でどういうのか?東京オリンピックがはじまろうとしているのにこれぐらい言わなくてはアスリートとは言えない。しゅっしゅつしゅっ俺は世界を目指すと言っても英語が話せませーんではみじめなだけだ。本当に世界で認められるためには英語を話し自己主張しなければ通用しないだろう。
韓国の学校に通っている小学生のハーフの女の子、おじいちゃんとおばあちゃんに誕生日プレゼントの感謝の手紙を出した。そこには「ありがとうごじゃいます。」と向こうにはフェとザの音がないので「ありがとうございます」が「ありがとうごじゃいます」となる。