金曜日のブログが久しぶりに閲覧者が300を超えたが、ここ最近は一日に100から200ぐらいであったが2年ぐらい前に400何人と言うのがあったが300と言うのはひさしぶりである。
私は数えられる名詞と数えられない名詞を教える時に犬が好きと言う表現を使う。
犬が好きはI like a dog I like dogs I like dogのどれが一番適切な表現か?と言う質問をするのだが、正しいのはI like dogsで院は一匹ではないので、単に犬が好きだと言う時は複数形にする必要があるからである。I like a dogだと少しおかしいが犬が好きなんだと言っていることがわかるが、しかしI like dogは少し意味が違う。
I like dogとa theもつけない複数形でもない状態で犬が好きだと言うと食用の犬の肉が好きだと言う意味になる。
ここからが数えられる名詞と数えられない名詞の説明になるが、この数えられる名詞と数えられない名詞を理解できたらI like dogが食用の犬が好きになるということが理解できるのである。
じゃあまず数えられる名詞って何?
勉強した人なら何となく言葉には説明できなくても、それを判別することはできるであろう。私の説明ではまず数えられない名詞と言うのは物に入れたりしなければ数えられないもの、そしてそれ自体を切ってもやぶいてもこわしてもそれだと言えるものだ、例えば紙がそうだ紙は切ってもやぶいてもそれ自体が紙だと言える。さらにチョークもそうだと思う、チョークもおってもそのおったもう一方をチョークと言えるので数えらない名詞であると言うことができるのだが、そう考えると犬などの動物が切っても形をこわしてもそれが犬だと言えるのはロースやカルビがビーフだと言える食用の肉であってI like dogと言う言葉をネイティヴが聞いて食用の肉が好きだと言うのはそういう発想から来ている。
MOBでは英語を教えているのだが、こういう冗談まがいのことを言って教えている。
この前のレッスンで会員のひとりが面白かった。話にひきこまれてしまってはじめて英語の授業が楽しいと思ったと言っていたが、たぶん私が教える英語は実戦的と言うよりは楽しく学ぶことができると言ったほうがいいであろう。
ボクシングも授業と同じでそれを楽しくするかしないかはその教える人間たちがどう知恵を使うかと言うことである。トレーニングの仕方、それらを取り巻く環境、そしてウイットにとんだ会話をもってトレーニングを楽しくする義務はあると思ってる。そういうところに知性を使うことができない奴はダメだとさえ思っているのだが、どこかの新興宗教の信者のようにトレーニングを修行のように一生懸命するものだけが中心で何となく楽しんでるようなクラブであってはいけないと思っている。
スポーツと言うのはすべての人間が競技する権利がある。
うちのクラブもDQNお断りであるが来たからには平等に楽しむ権利がある。
ジムによっては試合に出るものしか教えないと言うようなもったいぶった奴らもいるらしいが、たぶんそれはくだらない権威づけのようなもので、真剣にやってるかやっていないかという線引きをしているのだと思うのだが、しかし私にして見れば目立つための目標を持つ人間よりも地道にコツコツと仕事帰りにくるダイエットの人たちのほうが真剣とさえ思えることもあるのだが、スポーツは競技するということだけではなく、ダイエットや健康維持でエクササイズすることもスポーツであってここに何らかの差別をすることは公共の場であるボクシングクラブとしてはおかしいことである。
世の中では何をやっているのかは知らないが、一般社会の人間が一生懸命仕事をして、金を出してジムに来ているのにそういう子供のような差をつけられること自体心外である、何を考えているのか知らないが社会人もいるのに試合に出るものしか教えないと言うのは幼稚すぎるガキのような考え方で、コンプレックスがあるのでそういうことを言って人と差をつけてえばっているにしかすぎない。
現にたいしたこともないような人間がジムに来ると自分がいかに強かったかなんていうことを示したがる。
他に何もできない人間のルサンチマンやコンプレックスのあらわれだと思っているのだが、他に何もできないからボクシングの実績や経歴にこだわるようなところはバカだと思う。
だいぶ前にたかだかボクシングされどボクシングと言ったが、一部のほんのごくわずかな人間以外はボクシングは趣味である。
ボクシングだけだけをするのではなく、むしろ仕事や勉強に励んで生きることが大事でその当たり前の自分たちがやらなくてはならないことを一生懸命やりながらスポーツをすることで、そのスポーツが本当にその人の生きる人生の中で価値をおびてくる、それはいくら実績がなかってもだが、そういうスポーツの仕方をすることが大事であり、そういうことを教えるのも指導者の責任ではないか。
人間を正しい場所に導くのは人間が与えられた知恵によると信じている。
パスカルは人間は考える葦だと言った。これはいくら人間の存在が宇宙に比べて小さくても人間にはそれに勝る知性があるということであるが、人間は知性によって行動し導かれることが必要である。
何とかチャンピオンとかそういう肩書もいいが、しかし肝心な部分がかけてしまったら群れの健全性をうしなってしまうであろう。
最後に人間をあらわす言葉にホモサピエンスと言う言葉がある。
よく勘違いしてこの言葉自体が人間だと思っている人もいるが、しかしホモと言うのはラテン語で持つ者的に使われていて、ホモサピエンスは知性を持つものだ。
さらにホモルーデンス(遊ぶもの)ホモモータリス(やがて死すべきもの)ホモファベル(道具を持つ者)と言う言葉も人間をあらわす言葉なのだが、しかしホモサピエンスと言う言葉が人間をあらわす代名詞のようになっているのは人間だけが他の動物に比べてすぐれた知性を持っているからである。