私は韓国語を教えているが韓国語は非常に大雑把な言葉である。
この前文字を読む練習でチマと言う言葉が出て来た、チマというのはスカートのことでチマチョゴリというのは女性が着るスカート型のチョゴリのことでむこうではすそのひろがった形のものをまとめてスカートと言うのだが、この発想は日本人から見たら非常に大雑把らしい。
確かに韓国語は大雑把である。例えば入口のようなものをムンと言うムンとは玄関の戸や寺の門も同じムン窓はチャンムンと言うが彼ら彼女らにとって人が入ったり出たりするところはすべてムンである。
マンドウと言う言葉もそうだ、これも非常に大雑把でマンドウと言うと日本語の饅頭もマンドウだし、餃子もマンドウおそらくそれらしき形をしていたらすべてマンドウと言っていいのだと思うのだが、そう考えるとたこやきもマンドウと言っていいかも知れない。
さらに人間の自然現象や生理現象に関してもそうだ、韓国語で涙はヌンムルだヌンと言うのは目そしてムルは水でヌンムルと言うのは目の水と言うことで、髪を切るというのを頭を切ると言ったり、彼ら彼女らは人間の生理現象に関しても単純にとらえていることは確かである。
はっきり言って韓国語は表現力に乏しい言語である。向こうの修士論文を英語で書くと言うのがまさにそのことを物語っているのだが、表現力に乏しい言葉であるから感情や情緒をこめて表現する必要がある。だから向こうの人間は感情的であり情緒的であると思う。
しかし韓国語が表現力に乏しい言語だからと言って、韓国人の表現力が乏しいと言うことではない。
彼ら彼女らがいろいろと言葉を組み合わせて自由に使う表現力は豊かであると言ってもいい。
あるおっさんなどは自分がどれだけ我慢したかと言うことを伝えるのに(実際はそうでもないが)俺は血の涙が出たとおおげさに表現するのだが、こういう表現は韓国語だからこそ自然な表現であると思う。
これは私の経験であるが言葉をおぼえると感情が安定してくる。自分の言いたいことや考えていることをうまく表現できるだけでも行動を慎むことができるのだが、私の行動や感情が安定してきたのはまさに言葉を勉強し表現力を養ってきたからだと思っている。
しかし勘違いしてほしくないのは韓国語が表現力に乏しいから彼ら彼女らが未熟だと決して言っているのではない。哲学の分野では世界100に哲学者に入る学者もいるし、言葉をうまう形容して書く詩は素晴らしいものがある。
私が言いたいのは言葉をおぼえることはすべてのことにおいてアドヴァンテージであると言うことだ。
自分の考え方を整理できるし、言葉をおぼえることで多面的な考え方ができるので原因をひとつで考えるのではなくいろいろな可能性を考えることができるのだが、それだけでも疑心暗鬼になりにくいであろう。
群れる奴と言うのは言葉が乏しい。言葉が乏しいので話を誇張したり、でかい声ではなすのだが、それはまさに言葉が乏しく表現力がないからである。
言葉をみがけばそれなりにきちんとした人が集まってくる。
たくさん言語を話す必要はないが、しかし日本語をきちんと話し、まともに話ができるリテラシーを持つ必要があると思う。