脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

スポーツの目的

2013-03-21 | Weblog
私の読んでいる英字新聞によるとJOEが1798人のアスリートを対象に体罰についてのアンケートを行った結果、それによると暴力を受けたのが全体の11.5%、そして暴力を目撃したと言うのが11.8%と言う報告が出た。
はっきり言って私はこの結果に満足はしていない。なぜなら体罰は愛情だと勘違いしているような奴が多くの割合を占めている中で、暴言やちょっとした暴力はみのがされているだろうと考えるからである。
運動クラブのモラルはマヒしている。時々暴言をはいたり、こんな言葉をつかっていいのかと言う言葉を使う奴がいるが、日本の運動クラブは私からしてみれば異常、おそらくこういう暴力的なことを押さえつけると今度は陰湿ないじめがでてくるのではないかと考えている。

またまた体罰で問題があった。今度は中学で民間の指導者がおかした行為であるが、はっきり言ってスポーツを命をかけてやることが尊いことだと勘違いしているバカが未だごろごろいるので、たぶんこう言った暴力的なことはなくならないであろう。たぶん顧問の体罰はなくなっても今度はバカアスリートが問題を起こすと思っている。
スポーツがすべてだなんて思っている奴の特徴は、特にだめな奴をあげるとコンプレックスがあるので、それをやっていることが素晴らしいことだとまわりをみとめさせ、そしてたいしたこともやっていないのに、今の自分があるのはこのスポーツのおかげだと言って、いかに自分はすごいことをやって来たかということを誇張する。
しかしスポーツはあくまで楽しむために競技するものである。
だからそれは個人とそのスポーツがどうか関わっていくかが問題であって、決してスポーツは日本人が考えるような修練の場ではないし、苦しいことを共有し、それを乗り越えて行くことで、ひとつにまとまってと言うような歪んだ仲間意識を養う場でもなく、そういう経験をした人間が素晴らしいと言うことでもないと思う。

けれどもそういうことがすべてのことにまさって素晴らしいと言うような奴は、そういうせまい価値観しか持てず、さらに自分の価値観をこわしたくないのでそういう意味もないことにこだわっている。
私はコンプレックスを持った人間が指導者になって力を与えられると暴力的になって、暴言を吐いたり、実際暴力をふるうのだと思うが、こういうコンプレックスを持った奴が指導者になるとまともな指導者になるとは疑わしいことだ、前にも気が小さいので暴力的ではなかったが、試合は殺し合いだなんていうようなことを言っていたバカがいたが、こういう発言もコンプレックスの裏返しである。
はっきり言ってこの手のタイプは傷つきやすく、自分を大きくみせようとしすぎる傾向がある。
だから暴力や激しい言葉で自分を誇張し自分のメンツを保とうとする。暴力や勢いのある言葉で自分を誇張するのは単純な世界であり、こういったやり方はもはややくざの世界と同じ、そういうやり方が日本のスポーツ界では今の今まで当たり前のこととして受け入れられてきた。
そう考えると今までの日本のアスリートがいかにレヴェルがひくいということがわかるのだが、そういう中から指導者が出ていて、実際そういう奴が常識的な価値観で指導できるはずはない。
本当に自信があれば、そういう暴力的な言葉など出てくるはずはない。自信がないから人をなぐったり、勢いのある言葉で人をいかくするのではないかと思うが、あの高校のバスケット部の暴力事件があからさまになって、芋づる式にそういう犯罪行為が天文学的な数字で出て来たが、そういった稚拙で自分たちの価値観でしか生きれないような奴を指導者としてあがめるから、こういうバカげた事件がおこるのだと思う。

これは私の主観的な意見であるが、私がそれしかできないバカアスリートが嫌いなのは、自分の自慢話しかしない、すべてのことを自分の狭いボクシングや野球と言うようなフィールドの中でしかとらえることができないからだ。
こういうところにこいつらのバカさ加減が見てとれる。
このご時世に英語がまったく理解できない。常識的な学力がない。「こう言った」を「こおいった」と書くバカがいたがこおいうバカは今まで何をやってきたのだろうか。実際こういう人間が中高生の指導をしているからおそろしい。
勉強がすべてだとは言わないが、こういう人として当たり前の常識をおぼえずに、人の指導などできるのだろうか?はっきり言って社会に出たら言葉を知らなければ恥をかいてしまう。だからいくら運動ができたとしても言葉を知らなかったり、ある程度教養と言うものを身に着けていなければ、社会でいろいろなタイプと出会って話をしていくうえで、それがコンプレックスになるだろう。
日本はクラブの集団を見たらクラブと言うよりも監督中心の組のようなものを形成しているが、ここにこいつらの限界を感じる。いわゆるそういう監督と言う親分を中心に力関係で動く封建的な世界が出来上がってしまっているから、そういうやくざのようなしきたりがはまってしまうのだろうと思っている。

はっきり言ってこれからはスポーツで心を鍛えるなんて言うようなことは言わない必要がある。
なぜならスポーツで心を鍛えることは意味のない修行をするようなものだからだ。
スポーツと言うのはただ純粋に楽しむためのもの、そういう楽しみと言うものがあるからストレス発散ができ、その楽しいことが生きていくうえでの励みになるのではないだろうか。

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