脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

流れ流れて

2012-05-10 | Weblog
時々クラブに子供に自信をつけせるためというようなことで、ボクシングをさせたいという人たちが来る。しかしただ単にスポーツをさせたから自信がつくと言うのは短絡的である。
おそらく自信をつけるたいと言っているお母さんやお父さんは、その子の性格的なものの改善を望んでいると思うのだが、しかしそうなるとスポーツをさせればいいのかという問題だけではなく、もう少しその子の性格などを考えて、スポーツをさせるにも慎重に考えて行かなくてはならない問題であるのだが、私なんかはそのディスアドヴァンテージを改善しなくてはいけないと考えるよりは、もし気が弱いことをディスアドヴァンテージに考えているのなら、気が弱いと言うのは性格なのだから、そのことを積極的に受け取っていく方がいいのではないかと思っている。

しかし自信なんて誰でももてるものではない、ましてやスポーツをやったからと言って持てるものでもないだろうと思う。
現にボクシングをしている人間のすべてが自信があるのかと言えばそうではない。私なんかはむしろ勉強やその他のいやなことから逃げて来て流れ着いたみたいな感じで、そこにへばりついていると言った奴のほうが目立つように思える。
確かに非常に立派な人もいるのだが、しかし正直そういう人たちの方が目立つことは確かだ。
現にそういう集団は単にボクシングが好きと言うよりも、それしかできないから固まっているのだが、仲間意識が強く、そこではおのずと先輩後輩の関係ができ、ボクシングの肩書が幅をきかす世界で、それが健全かどうかと言うとそうではないと思う。
時々言うボクシングは殺し合いだなんて言う奴なんかもそうだ、こういう言葉がでてくるのは勢いで話そうとするからである。普通に話せば、こういう大人が聞いたら勘違いされるような言葉が出てくるはずはないのだが、しかしコンプレックスが強いと人に見下されるのがこわくて、つい勢い余ってこういう言葉が出てくるのだと思っているが、こういうことは私があえて書かなくても周りから見たらよくわかることだが、人前でまともに話ができたらこんなバカなことはいわないだろう。勉強もしないで、好きなことしかしないとこういう限界が出てくるのだ。

スポーツに望めるとしたら、それは運動をさせることでホルモンのバランスがよくなって、積極性が出てくると言うことである。
これはうちのクラブの話であるが。うちのクラブには海外勤務を希望したり、留学を志した人たちがいるし、かつていた。これは少し笑える話であるが、ある小学生はお母さんが言うに「俺は高校になったら日本にいるかどうかわからん」と言ったそうだが、これらは練習中に私が語学の話や英語の話をしたことで興味を持ったからであり、こういうアドヴァンテージを仕事や勉強面のモティヴェーションに結びつけてやることが大事なことだと考えているが、我々がもしスポーツに望める何かがあるとしたら、そういうアドヴァンテージを考えて、何かその子が必要な目的につなげてあげることではないかと思っているが、これはある意味生理学的なメカニズムをよく考え理解することも必要であり、スポーツを競技する中でほめたりすることや、人とのコミニケーションなどにおいても、そういう将来のアドヴァンテージに結び付けるようなかたちをつくることも大事なことで、これからのスポーツ心理学などで取り組んでいってもいい課題であると思う。

私の意見としてはスポーツと言うのは性格を改善するためのものではない。
しいて言えばそこで人間関係などを通して成長する場であると思うのだが、子供にとって性格を改善させることよりも成長することが大事なことで、しかしたいていの親は成長よりも改善を願っているのではないだろうか。
成長するには時間がかかる。体育会であいさつや礼儀と称する言葉をつかわせて服従させることで、その子を成長させたと勘違いするが、しかしそんなものは成長でもなんでもない、ただそういうやくざまがいのヒエラルキーに一時的に順応させられただけであるが、一時的な改善を願うならばやくざの組に入れたほうが徹底してやってくれるのでその方がいいと思うのだが、こういう服従は軍隊に入るならまだしも一般社会では必要はない。
成長は栄養と同じで、同じものしか食べないと偏りが出てきて体のバランスをうしなう。それとおなじように、体を動かすだけでは偏りがある。成長するためには勉強することも大事であるが、そういうかかわりの中でスポーツをとらえる必要がある。
スポーツは何か賞を目指して、ただそれにむけてがむしゃらに競技するだけのものではない。
スポーツと言うのは公平で誰でも競技する権利があるのだから、これを競技することで彼彼女らの将来に役に立つような仕方でも競技することを考える必要があるだろう。

体育会が健全ではないと思うのは、今言った人間関係を通して成長できる場ではないこと、単純なヒエラルキーが出来上がっているので、個人レヴェルでの人間関係を考えることができないので、ある意味成長がない。

最後にひとつ私の意見はうっとうしいと思っているのに、ぱくれるものはすべてぱくってつかう奴らがいるから笑える。
親が子供に自信をつけたいんですけどと言って「性格を改善させるのではなく、ここでは成長させることを考えている」なんて言ったら、間違いなくここに書いてあることの引用であるが、教育レヴェルや文化レヴェルがひくいと人のアイデアや意見などを平気でぱくるから始末におけない。








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