脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

QUE SERA

2009-02-12 | Weblog
ここに結婚式の誓いの言葉がある。
「○○ Do you take this woman ○○ To be your wedded wife?
Will you love her, honor and keep her, in sickness and in health, and forsaking all other, be faithful to her as long as you both shall live」
外国の教会の結婚式で読まれるおそらく定型文である。
注意したいのは、ここに二つの未来を表す言葉が出てくるのであるが、一方では「Will you love her」と言っているのに対してもう一方では「You both shall live」と助動詞をを使い分けているところである。
これはどちらも未来をあらわした言葉であるが「Will」 と「Shall」では大きな違いがある。
「Will」が未来や意志をあらわす言葉に対して「Shall」は能動的な意味よりも、受動的な意味あいが強く、生きるというよりも、むしろ生きることを許されるという意味のほうが強いそうである。
だからここで「You both shall live」という時、自分たちで何かをしようという
意思で生きるのではなく、生きることをゆるされたあなたがたが、言葉を変えれば生かされているあなたがたというニュアンスをもって、聞く側には響くはずであるが、改めてこのことに注意してこの文を読んでみるとおもしろい。
欧米人が日本人に比べて楽天的でというのは、この一文に秘められていると思うのだが、日本人はシリアスすぎる。
たとえば英語の「Let it be」やフランス語の「Que sera」などは、あいまいなことばなので、日本語に訳すのに苦労する言葉であるが、これは自分たちにこういう感覚がないからである。
よく小さい頃から目標を持てなんていわれて、自分たちは生きてきているが、いきなり目的を持てなんていうことは言われても高尚すぎる。
おそらく欧米人は日本人のように、やたら若い人間に目標を持てとわ言わないだろう。
Hiでは、ミーティングなどでコーチに目標を持てと言うことを、言われたことがなかったが、少なくとも彼ら彼女らにとって、人生は何のために生きるかというよりも、どう生きるかと言うことのほうが問題であり、刹那主義のような響きさえあるが、やはりこのことは自分が生きることをゆるされている、生かされているということと関係してくるのではないだろうか。
生きるということは、生きる目的を持たなくてはならないということではない、与えられた時間の中で、自分が生かされている喜びを、精一杯感じて生きることが日常の活力となり、やがてそれが目標を描く力となるのだ。
その充実感をボクシングを通して得てくれたらうれしいことである。
言葉は足りないかもしれないが、自分たちが生きるということを考えるよりも、自分は生かされているんだということを、考えるほうが楽である。
確かに「生きる」ことはしんどい、しかし自分は生かされているんだと考えるとき人生の逆転が起こるかもしれない。


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